吉田茂のサンフランシスコ講和条約での演説

Q.吉田茂はサンフランシスコ講和条約の調印式で演説しましたか?

はい、吉田茂はサンフランシスコ平和会議で演説を行いました。1951年9月7日、彼は日本の立場を説明し、条約の受諾を表明する演説を行いました。この演説では、条約が懲罰的なものではなく「和解」と「信頼」の文書であることを強調し、日本の主権回復と国際社会への復帰を歓迎する姿勢を示しました。

また、彼は領土問題や経済的な懸念についても言及し、日本が戦後の困難な状況を乗り越え、国際社会の一員として貢献する決意を述べました。この演説は、日本の戦後外交において重要な意味を持つものでした。詳しくはこちらで確認できます。



Q.吉田茂はサンフランシスコ平和会議で演説は日本語で行われましたか?それとも英語でしたか?

吉田茂は日本語で演説を行いました。当初は英語で話す予定でしたが、米国側から「日本の尊厳のために日本語で行うほうが良い」との提案があり、急遽日本語での演説に変更されました。

この変更により、演説原稿の作成は時間ギリギリの作業となり、数人が手分けして巻紙に日本語の演説を書き写し、それを議場で繋ぎ合わせるという対応が取られました。また、吉田は「議場にいる者は誰も日本語がわからない」と判断し、終盤の一節を飛ばして読みましたが、後に演説が日本にも放送されていたことを知り、「そんならもっとうまくやるんだったのに」と後悔したと言われています。

このエピソードは、戦後日本の外交における象徴的な出来事の一つとして語り継がれています。興味深いですね。




Q.当初、英語で演説する予定が日本語に変更になったのは、白洲次郎のはたらきがあったという説がありますが?

白洲次郎がサンフランシスコ平和会議での演説を日本語に変更するよう働きかけたという説はありますが、これは歴史的に議論の余地がある話です。

一部の資料では、白洲が「独立回復の場である以上、日本語で演説すべきだ」と強く主張し、吉田茂に影響を与えたとされています。特に、NHKの番組『映像の世紀バタフライエフェクト』では、白洲がこの決定に重要な役割を果たしたと紹介されています。

しかし、他の証言では、米国側(アチソン国務長官など)が「ソ連もロシア語で演説しているのだから、日本も日本語で行うべきだ」と提案したことが決定的な要因だったとされています。吉田自身の回想録『回想十年』でも、アチソンの提案を受けて日本語で演説することに決めたと述べられています。

このように、白洲次郎の影響を強調する説と、米国側の提案が決定的だったとする説があり、どちらがより正確かは歴史的な検証が必要です。白洲が日本の外交において重要な役割を果たしたことは確かですが、演説の言語変更に関しては複数の要因が絡んでいた可能性が高いですね。