Q.満州国とはなんですか?
「満州国(まんしゅうこく)」は、1932年から1945年まで存在した、日本が中国東北部(旧満州)に設立した傀儡国家(表面的には独立国だが、実際には他国の支配下にある国家)です。以下に詳しく説明します。
満州国の概要
項目 |
内容 |
成立年 |
1932年(昭和7年) |
消滅年 |
1945年(昭和20年) |
場所 |
中国東北部(旧満州) |
首都 |
新京(現在の長春) |
支配者 |
実質的に日本が支配 |
国家元首 |
執政→皇帝 溥儀(元清朝最後の皇帝) |
公用語 |
中国語、日本語など |
実態 |
日本の傀儡国家(独立を装った支配体制) |
背景と成立
-
1931年:満州事変が発生。日本の関東軍が南満州鉄道爆破事件(柳条湖事件)を口実に中国東北部に軍事侵攻。
-
1932年:日本はこの地域に「満州国」を建国させ、溥儀を元首に据える(当初は「執政」、後に「皇帝」となる)。
-
日本は満州国を「独立国」と主張したが、国際社会ではほとんど認められなかった(国際連盟も否定)。
特徴と実態
-
日本の資源確保と軍事拠点の目的が強く、鉄や石炭など資源が豊富な満州を利用。
-
五族協和(漢・満・蒙・回・日)というスローガンを掲げたが、実際には日本人が支配し、中国人や現地民族の権利は制限された。
-
日本の関東軍が事実上の実権を握っており、行政・軍事・経済の多くを掌握。
-
多くの日本人移民(開拓団)が送り込まれた。
滅亡
歴史的評価
Q.なぜ関東軍は満州国を建国しとうと思ったのですか?
とても良い質問です。
関東軍が満州国の建国を目指した理由は、複数の政治的・経済的・軍事的な思惑が重なっており、単なる「領土拡張」ではありませんでした。以下にその主な理由を詳しく説明します。
満州国建国の主な理由(関東軍の狙い)
1. 資源の確保(経済的理由)
-
満州は鉄鉱石・石炭・森林・農地など資源が非常に豊富な地域でした。
-
日本は当時、資源に乏しい島国であり、工業化・軍備拡張を進めるには満州の資源が不可欠と考えられていました。
-
特に、世界恐慌(1929年以降)による経済不況が背景にあり、**植民地経済圏(「満蒙は日本の生命線」)**という発想が強まりました。
2. 勢力圏の拡大と防衛線の構築(軍事的理由)
-
関東軍は、日本の大陸における軍事的・戦略的プレゼンスを確保したいと考えていました。
-
ロシア(後のソ連)や中国の軍閥勢力の拡大を警戒し、**「満州を取らねば日本の安全が脅かされる」**という危機感がありました。
-
また、日本本土を防衛する「緩衝地帯」として満州を自国の勢力下に置くことが狙いでした。
3. 日本国内政治の不安定と軍部の暴走(政治的背景)
-
当時の日本では、軍部(特に陸軍)が政治を強く牽引しており、政府よりも軍の判断が優先されるような風潮がありました。
-
関東軍は本国政府の命令を無視して、独断で満州事変を起こし、その後に満州国を建てるという暴走的な行動に出ます。
-
軍部は満州国を成功させることで、国内での発言力や権威を高めようとしました。
4. 民族統合・理想国家の建設という名目(プロパガンダ)
-
「五族協和(漢・満・蒙・回・日)」というスローガンを掲げ、多民族が協力する理想国家を建てるという建前がありました。
-
しかし、実際には日本人による支配体制が敷かれ、他の民族にはほとんど実権がありませんでした。
-
これは、国際社会に「侵略ではない」と印象付けるためのプロパガンダの一環です。
まとめ:関東軍の満州国建国の動機は?
「日本の利益と安全を守るため」という大義名分のもと、
実際は「資源確保・軍事支配・帝国主義的拡張」を目的としたもの。
関東軍の行動は結果として、国際的孤立(国際連盟脱退)や日中戦争・太平洋戦争につながる重要な転換点でした。
Q.満州国建国に関わった人物はどんな人ですか?
満州国の建国に関わった人物たちは、日本側・中国側の双方におり、それぞれの立場や動機も異なります。以下に主要人物をわかりやすく紹介します。
日本側の中心人物たち
1. 石原莞爾(いしわら かんじ)
特長:戦略家タイプ。知性派だが過激な軍事思想を持っていた。
2. 板垣征四郎(いたがき せいしろう)
特長:行動力重視の武断派。石原と対照的に現場主導型の軍人。
3. 東条英機(とうじょう ひでき)
-
当時、関東軍憲兵隊長。
-
満州国統治の秩序維持・治安対策に関与。
-
後に陸軍大臣・首相となり、太平洋戦争の主導者に。
特長:満州での経験が後の権力獲得の土台に。
中国(満州)側の関係者
4. 愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)
-
清朝最後の皇帝(光緒帝の弟・宣統帝)
-
日本に利用されて**満州国の執政(後に皇帝)**に。
-
権力はほとんどなく、日本の操り人形(傀儡)に過ぎなかった。
-
戦後、ソ連に連行→中共の再教育を受け、晩年は一般市民として生涯を終えた。
特長:没落した元皇帝。国を失った王がもう一度「皇帝」に戻れるという誘惑に負け、日本に協力。
5. 鄭孝胥(てい こうしょ)
-
満州国の初代国務総理(首相的立場)。
-
中国人官僚だが、日本に協力し満州国建設を支援。
-
満州国の理念にある程度共鳴していたとも言われる。
特長:理想主義を信じたが、結果的に日本の操り人形政権に加担。
補足:その他の関与者
まとめ:どんな人が関わったのか?
分類 |
主な人物 |
特徴 |
軍人 |
石原莞爾、板垣征四郎 |
軍事戦略と実行。国家の枠組みを作った。 |
官僚 |
鄭孝胥、甘粕正彦 |
政治や文化統治を担った。 |
傀儡君主 |
溥儀 |
表面的な元首として利用された。 |
外交官 |
松岡洋右 |
国際社会で満州国の正当性を主張した。 |
Q.満州国の運営に関わった人にはどんな人がいますか?
満州国の「運営」に関わった人々は、大きく分けて次の3つのグループに分類できます:
1. 日本人官僚・軍人(実質的な支配者)
満州国は形式上は「独立国」でしたが、実権はすべて日本の関東軍と官僚機構が握っていました。運営の中心は、主に以下のような人物たちです。
? 関東軍関係者(治安・行政・軍事を支配)
-
東条英機:当時は関東軍憲兵隊長。住民統制・思想弾圧など治安政策に関与。
-
板垣征四郎:軍事的実力行使で満州国建国を実現させた人物。建国後も関東軍幹部として影響力を持った。
-
石原莞爾:建国構想の中心人物の一人。初期は「理想国家建設」を掲げたが、後に関東軍内部で孤立。
関東軍はあくまで軍人ですが、満州国では「最高権力者」として行政にも強く関与していました。
? 満鉄・企画院出身の日本人官僚(テクノクラート)
「統制経済」や計画経済の運営で、日本人官僚が直接制度設計を行った。
2. 中国人協力者(形式的な顔役)
? 溥儀(ふぎ)
? 鄭孝胥(てい こうしょ)
? 張景恵(ちょう けいえい)
中国人は表面的な政府役職に就いていたが、意思決定権はなかった。
3. 民間の日本人移民・実務者
満州国の統治の仕組み(誰が運営していた?)
部門 |
実務担当 |
実際の権力者 |
国家元首 |
溥儀(形式的) |
関東軍が操る存在 |
行政(政策立案) |
日本人官僚(岸信介・星野直樹など) |
日本政府・関東軍 |
治安・軍事 |
関東軍 |
関東軍 |
経済・開発 |
満鉄・日本の技術者・官僚 |
日本の産業官僚 |
中国人協力者 |
鄭孝胥・張景恵など |
顔役・象徴的ポジション |
まとめ
満州国の運営に関わったのは、日本の軍人・官僚・技術者たちが中心で、
中国人は「見せかけの政府」に起用されたが、実権はなかった。
満州国は、日本が理想国家をうたいながら、実際には植民地支配を制度化した典型例といえます。
Q.日本から満州国への移民にかかわった人にはどんな人がいますか?
日本から満州国への移民に関わった人たちは、政府・軍・民間それぞれにおいて大きな役割を果たしました。特に1930年代以降、「満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)」という国家事業のもとで、多くの日本人が中国東北部へと送り出されました。以下では、移民政策に関わった主要人物と団体、その目的・背景を紹介します。
日本からの移民に関わった人たち
1. 政府・官僚の主導者たち
? 岸信介(きし のぶすけ)
移民を単なる「農業政策」ではなく、国家の植民事業・国防政策として構想していた。
? 星野直樹(ほしの なおき)
2. 関東軍と陸軍関係者
? 関東軍全体(特定個人より組織として)
3. 民間・農村指導者たち
? 満蒙開拓青少年義勇軍の創設・指導者たち
-
1937年から始まった「青少年義勇軍制度」は、15〜17歳の少年を集団で満州に送り出す制度。
-
文部省や農林省、地方青年団、旧村会などが連携して実行。
-
地方の青年団幹部、教師、農会職員などが人材募集と育成を担当。
? 石黒忠篤(いしぐろ ただあつ)
移民として満州に渡った人々
? 誰が渡ったのか?
-
主に農村部の貧しい人々:失業者、次男・三男(家を継げない者)、地主の子弟など。
-
青少年義勇軍:15歳前後の若者を中心に約8万人が派遣された。
-
家族移民:戦争が進むにつれ、家族ごと移住する農民が急増(特に1930年代後半?1940年代前半)。
-
技術者・教師・警察官・医者なども多く派遣された。
満州移民の目的
分類 |
内容 |
国防目的 |
中国やソ連に対する**緩衝地帯(防衛線)**を作る |
経済目的 |
満州の土地を農業・鉱業・工業に活用し、日本の資源不足を補う |
社会目的 |
国内の農村不況や人口過剰(特に東北地方)を解消する |
イデオロギー |
大東亜共栄圏構想に基づく「アジアの理想国家づくり」の一環とされた |
? 結末と評価
-
日本の敗戦(1945年)により、移民は突然の帰国・引き揚げを強いられた。
-
多くが中国大陸に取り残され、略奪・暴行・餓死・捕虜などの過酷な経験をした。
-
「棄民政策(国に捨てられた民)」という批判もある。
まとめ
関わった人たち |
主な役割 |
岸信介・星野直樹 |
制度設計と移民政策の企画・推進 |
関東軍 |
移民を国防政策として実行 |
地方農政官・青年団 |
移民候補者の募集・教育 |
移民本人(農民・青少年) |
理想や貧困から新天地を求めて移住 |
Q.満蒙開拓青少年義勇軍を創設した人はどんな人ですか?
「満蒙開拓青少年義勇軍(まんもうかいたくせいしょうねんぎゆうぐん)」を創設した中心人物は、主に政府の農政官僚・教育官僚・軍人たちでした。特定の一人が「創設者」として名を残しているわけではありませんが、その構想・実施に深く関わった人物を以下に紹介します。
満蒙開拓青少年義勇軍とは?
創設に深く関わった主な人物
1. 石黒忠篤(いしぐろ ただあつ)
ポイント:義勇軍という制度の「思想的支柱」として、農業移民の国策化を後押し。
2. 武部六蔵(たけべ ろくぞう)
3. 陸軍省関係者(特に関東軍)
支援・協力した組織
組織名 |
役割 |
農林省 |
移民制度の企画・募集計画 |
文部省 |
教育指導・精神訓練の設計 |
陸軍省/関東軍 |
国防目的に基づいた訓練・派遣 |
青年団(地方団体) |
義勇軍候補の募集・動員 |
義勇軍の少年たちはどう選ばれた?
まとめ:誰が義勇軍を作ったのか?
役割 |
人物・組織 |
構想者 |
石黒忠篤(農政官僚) |
教育・思想設計 |
武部六蔵(青年団・文部省関係者) |
訓練・派遣 |
陸軍省・関東軍 |
募集・勧誘 |
青年団、地方行政、教師 |
一人の創設者ではなく、**国家総動員体制の中で作られた「戦時型組織」**と理解すると正確です。
Q.石原莞爾は東京裁判ではどうなりましたか?
石原莞爾(いしわら かんじ)は、東京裁判(極東国際軍事裁判)では起訴されませんでした。つまり、「戦犯」として裁かれることはありませんでした。
石原莞爾と東京裁判の関係
? 起訴されなかった理由
-
早期に軍部と対立し失脚していた
-
思想的にユニークでアジア侵略には慎重
-
健康問題と晩年の政治的影響力の低さ
? 東京裁判で起訴されたのは誰?
-
東京裁判で起訴されたのは 「A級戦犯」28名(軍・政府のトップ層)。
-
例:東条英機、広田弘毅、松井石根、板垣征四郎、土肥原賢二 など。
-
石原莞爾は、彼らとは一線を画す立場にいたと見なされました。
石原莞爾の戦後の姿勢
その後の運命
-
1949年に病気(肺病)で死去。享年59歳。
-
晩年は山形県酒田でひっそりと暮らしていました。
? まとめ
内容 |
詳細 |
東京裁判での扱い |
起訴されず、裁かれなかった |
起訴されなかった理由 |
開戦に反対、軍部主流派と対立、影響力の低下 |
戦後の活動 |
戦争責任論や軍部批判を展開 |
死亡 |
1949年、肺病により逝去 |
Q.終戦時、開拓民はどうなりましたか?
終戦時(1945年8月15日)を迎えた際、満州(中国東北部)に住んでいた日本人開拓民たちは、非常に過酷で悲惨な運命をたどることになりました。
彼らは「棄民(きみん)された民」「忘れられた戦争犠牲者」とも言われます。
状況の流れ(終戦前後)
1. 1945年8月9日:ソ連軍が満州に侵攻
2. 8月15日:日本、ポツダム宣言受諾(終戦)
開拓民の被害の実態
被害の種類 |
内容 |
殺害・暴行 |
ソ連兵による強姦・略奪、中国民衆による報復(反日感情) |
飢えと寒さ |
山中への避難生活で多数が餓死・凍死 |
集団自決 |
「捕まるよりまし」として、村単位での自殺も複数記録あり |
子どもたちの被害 |
「満州孤児」「中国残留孤児」として親と離れ離れになり、取り残された |
開拓民のプロフィール
-
満蒙開拓団(農民移民):約27万人(うち4万人が死亡)
-
一般民間人(企業・鉄道関係者など)を含めると約150万人の日本人がいたとされる。
-
特に被害が大きかったのは「婦女子と子ども」。男性は多くが戦地へ徴兵されていた。
? 日本への引き揚げ(1946?1948年)
-
終戦後、満州に取り残された人々は、順次ソ連・中国共産党・国民党などの管理下で**日本へ強制送還(引き揚げ)**された。
-
最終的には約120万人が帰国したが、引き揚げまでに数十万人が命を落としたとされる。
-
約2,000人以上の子どもが「中国残留孤児」となり、戦後何十年も日本に戻れなかった。
開拓民の証言(例)
「父も兄も戦争に行って、村には母と私と妹だけ。逃げるとき、ソ連兵が追ってきた。妹は山の中で凍え死んだ。母は私を抱きしめて泣いていた……」
? 満州からの引き揚げ者の回想(80代女性)
まとめ:終戦時の開拓民の運命
項目 |
内容 |
状況 |
ソ連の侵攻と関東軍の撤退により無防備状態に |
被害 |
殺害・暴行・餓死・集団自決・孤児化 |
生存者の運命 |
数年かけて日本へ引き揚げ、もしくは中国に残留 |
歴史的評価 |
国家に「見捨てられた存在」として戦後も長く苦しんだ |
Q.どうして関東軍は民間人を見捨てて逃走したのですか?
関東軍が満州の民間人(特に開拓民)を見捨てて逃走した背景には、いくつかの現実的かつ深刻な理由があります。決して単なる「怠慢」や「無責任」だけではなく、戦局・戦略・思想・組織の崩壊が重なって起きた悲劇でした。
背景:1945年8月の状況
ソ連の電撃侵攻(1945年8月9日)
?なぜ民間人を守れなかったのか?関東軍の逃走の理由
1. 軍の戦力がほとんど残っていなかった(虚構の軍)
つまり、**関東軍は“看板だけ立派な亡霊のような軍隊”**だった。
2. 民間人の避難計画が存在しなかった
-
戦時下にもかかわらず、一般開拓民の避難マニュアルも組織も一切用意されていなかった。
-
軍の任務は「国防」であり、民間人保護は優先されていなかった。
-
満州の広大な土地に点在する村々を「組織的に守る」ことは、物理的に不可能だった。
3. 軍上層部の命令系統が崩壊していた
4. 「戦え」という命令自体がなかった
-
大本営からの指令は「満州は捨ててもよい」「本土決戦が優先」。
-
つまり、満州に残った者も防衛戦を想定していなかった。
-
実際、8月9日の侵攻から8月15日の終戦までの約1週間、関東軍は一部を除き、ほぼ無抵抗で崩壊した。
5. 軍と民間の「意識の差」
-
軍は「国家のために戦う組織」であり、民間人の保護は二の次だった。
-
特に開拓民は「自分たちの土地を自分で守る」という建前で送り込まれたため、軍は彼らに過剰な期待をしていた。
-
結果的に、「守るべき住民」ではなく「自己責任の存在」と見なされた。
結果:開拓民はどうなったか?
被害内容 |
詳細例 |
保護されず逃げ遅れ |
軍の撤退とともに情報も断たれ、逃げる手段すらなかった人が多数 |
ソ連兵による暴行 |
略奪・強姦・虐殺などの戦争犯罪が各地で発生 |
山中で餓死・凍死 |
自力で逃げた人も食糧・防寒具がなく、数万人が犠牲に |
中国人の報復 |
長年の恨みから、元住民による日本人への襲撃・報復も起きた |
戦後の評価と反省
-
関東軍は「自分たちだけが逃げた卑怯者」という強い非難を受けた。
-
開拓民の多くは「国家に捨てられた」という強烈な記憶を持ち帰国。
-
日本政府も戦後しばらくはこの問題に正面から向き合わなかった。
? まとめ
原因 |
内容 |
戦力の不足 |
主力部隊は転出済み、実質的に無力化 |
避難計画の不備 |
民間人避難は想定外、軍に保護任務なし |
指令系統の崩壊 |
パニックによる指揮崩壊、無秩序な撤退 |
軍の思想的限界 |
民間人保護より国家命令・撤退を優先 |
結果 |
数万人が見捨てられ、飢えや暴力、混乱の中で命を落とした |
Q.関東軍の責任論や戦後の裁判について説明してください。
関東軍の「責任論」と「戦後の裁判」について説明します。
まず整理:関東軍とは?
-
関東軍(かんとうぐん)は、日本陸軍最大の海外駐留軍で、主に中国東北部(満州)を占領・支配していました。
-
1931年の満州事変を引き起こし、満州国を建国。中国大陸への戦争拡大の先頭に立ちました。
-
しかし1945年、ソ連の侵攻に対して機能せず崩壊。民間人を置き去りにしたことで非難されました。
? 関東軍の戦後責任:2つの側面から
1. 軍としての戦争責任
関東軍は、
-
満州事変(1931)
-
満州国建国(傀儡国家)
-
日中戦争の拡大
-
捕虜虐待・民間人迫害(731部隊など)
など、日本の中国侵略の「主犯格」として、多くの戦争責任を問われる存在でした。
2. 敗戦時の無責任な行動への道義的責任
? 戦後の裁判:誰が裁かれたのか?
1. 東京裁判(極東国際軍事裁判)
-
関東軍の「個人」として裁かれたのは一部のみです。
-
主に裁かれたのは次のような人物:
名前 |
内容 |
板垣征四郎 |
関東軍参謀。満州事変を指導し「A級戦犯」として処刑。 |
土肥原賢二 |
特務機関の長。中国工作などに関与。「A級戦犯」として処刑。 |
松井石根 |
中国戦線の指揮官(南京大虐殺に関与)。処刑。 |
東京裁判では、軍の「組織」ではなく、「個人」が裁かれた。
2. BC級戦犯裁判(地方軍事法廷)
? 例:ハバロフスク裁判(ソ連・1949年)
内容 |
詳細 |
対象 |
731部隊など関東軍の「生体実験」「細菌兵器」の関係者 |
主要人物 |
石井四郎(部隊長)は不起訴。中将・大佐級が裁かれた |
裁判の性質 |
宣伝色が強いが、実際の証言・証拠も多く残された |
一部は「人体実験の事実」を認め、有罪判決。
責任追及が不十分だった理由
-
アメリカが情報を利用した
-
冷戦の始まり
その後の社会的評価
時代 |
評価・動き |
1950?60年代 |
「国を守るためだった」「犠牲もやむをえない」など、責任が曖昧にされた |
1980年代? |
開拓民や残留孤児の証言が出始め、再評価される |
現代 |
関東軍の無責任体制・暴走主義が、侵略と敗戦の一因だったと批判される |
? まとめ
観点 |
内容 |
法的責任 |
一部の関東軍高官が東京裁判・BC級戦犯裁判で処刑・服役 |
道義的責任 |
民間人放置・暴走行為での責任は重く、戦後長く問題視 |
責任追及の限界 |
米ソ冷戦や政治的理由により、多くの関係者が裁かれず |
歴史的評価 |
「暴走する軍部」の象徴として、今日では深い批判対象になっている |
Q.当時の政府は、満州にいる民間人についてはどのように考えていたのですか?
当時の日本政府(特に戦争末期)は、満州にいる民間人――とくに開拓民や在留邦人――についての配慮が極めて不十分で、事実上「捨て駒」のように扱っていたと評価されることが多いです。政府の基本姿勢は、戦後の証言や資料から見ても「防衛も避難も想定せず、最優先事項ではなかった」ことが明らかになっています。
政府の基本姿勢(戦争末期)
目的:国体護持・本土決戦の準備
民間人に対する具体的な政策や扱い
1. 避難計画の欠如
「政府は本土決戦準備に集中し、外地在留邦人の保護や引き揚げ計画は事実上放棄された」
? 戦後の厚生省報告書(1950年代)
2. 国策としての「満蒙開拓」推進の裏返し
「開拓民は“満州防衛の楯”となるべき存在である」
? 当時の拓務省関係文書より
3. ソ連参戦を見誤った判断
4. 終戦時の政府対応:放置・混乱・責任転嫁
-
終戦後、満州に取り残された民間人の救出はソ連・中国に委ねられ、政府は事実上「手を出せなかった」。
-
多くの民間人が犠牲になったことに対し、政府は戦後も長らく明確な謝罪も補償もしなかった。
-
残留孤児問題(中国残留日本人孤児)も、解決に40年以上かかる。
歴史学者の評価
「当時の日本政府は、満州在住邦人を“戦略資源”としか見ておらず、個々の命の重みを見ていなかった。彼らは“国策の犠牲者”である」
? 家永三郎(歴史学者)
「敗戦は突然ではなかった。にもかかわらず、政府は民間人保護の責任を果たさず、見殺しにした」
? 豊田穣『満州の星くず』
? まとめ:政府の考え方と現実
観点 |
内容 |
民間人への姿勢 |
満州の民間人は「国策の一部」「準兵士的存在」とされ、保護対象と見なされなかった |
避難対応 |
ソ連参戦を読み誤り、避難計画も準備なし |
責任の所在 |
終戦後も政府は開拓民・孤児問題に正面から向き合わず、被害者は長く苦しんだ |
歴史的評価 |
「国家に捨てられた人々」「国家の責任放棄」として、強く批判されている |
さらに知りたいテーマがあれば、次のようなことも掘り下げてお話しできます:
-
拓務省(満州移民政策の実施官庁)の具体的な政策
-
「満蒙開拓団」の募集背景と実態
-
終戦後の政府による孤児・未帰還者の扱い
-
補償問題と戦後日本社会の対応
どうしますか?
Q.関東軍は撤退をどの時期に決定したのですか?
関東軍が撤退を正式に決定したのは、1945年8月9日のソ連の対日宣戦・侵攻直後ですが、実際にはその数日前からすでに現地部隊レベルで「防衛を放棄し撤退する」動きが始まっていたとされています。
背景:関東軍とソ連侵攻
関東軍の撤退決定・経緯の流れ
8月5日ごろ:関東軍司令部、戦力不足に気づく
8月9日(ソ連侵攻開始)
? この時点で、民間人への避難命令は一切出ていません。
8月10日〜13日:各地で組織的撤退
8月14日〜15日:終戦
なぜ組織的撤退ができなかったのか?
理由 |
内容 |
@ 避難マニュアルの不在 |
民間人避難に関する事前計画がなかった |
A 指揮命令の崩壊 |
通信遮断や司令官の逃走により命令系統が麻痺 |
B 時間のなさ |
ソ連の侵攻があまりに速く、準備する余裕がなかった |
C 政策の錯綜 |
本土決戦優先の大本営指令と、関東軍の現実との乖離 |
? まとめ
時期 |
関東軍の対応 |
〜8月8日 |
ソ連参戦を軽視し、満州防衛を継続する姿勢 |
8月9日 |
ソ連侵攻開始、この時点で事実上の撤退方針決定 |
8月10日〜13日 |
多くの部隊が命令なしに独自行動で撤退 |
8月14日〜15日 |
終戦により、組織としての関東軍は事実上崩壊し、降伏 |
補足:多くの歴史研究では、「撤退の意思決定が遅すぎた」「防衛も避難も放棄された」ことが、満州開拓民らの大量死・惨事を招いた重大な要因とされています。
必要であれば、当時の関東軍司令官(山田乙三大将)や、撤退命令に関する一次史料などもご紹介できます。ご希望はありますか?