満州国とは

Q.満州国とはなんですか?

「満州国(まんしゅうこく)」は、1932年から1945年まで存在した、日本が中国東北部(旧満州)に設立した傀儡国家(表面的には独立国だが、実際には他国の支配下にある国家)です。以下に詳しく説明します。


満州国の概要

項目 内容
成立年 1932年(昭和7年)
消滅年 1945年(昭和20年)
場所 中国東北部(旧満州)
首都 新京(現在の長春)
支配者 実質的に日本が支配
国家元首 執政→皇帝 溥儀(元清朝最後の皇帝)
公用語 中国語、日本語など
実態 日本の傀儡国家(独立を装った支配体制)


背景と成立

  • 1931年:満州事変が発生。日本の関東軍が南満州鉄道爆破事件(柳条湖事件)を口実に中国東北部に軍事侵攻。

  • 1932年:日本はこの地域に「満州国」を建国させ、溥儀を元首に据える(当初は「執政」、後に「皇帝」となる)。

  • 日本は満州国を「独立国」と主張したが、国際社会ではほとんど認められなかった(国際連盟も否定)。


特徴と実態

  • 日本の資源確保と軍事拠点の目的が強く、鉄や石炭など資源が豊富な満州を利用。

  • 五族協和(漢・満・蒙・回・日)というスローガンを掲げたが、実際には日本人が支配し、中国人や現地民族の権利は制限された。

  • 日本の関東軍が事実上の実権を握っており、行政・軍事・経済の多くを掌握。

  • 多くの日本人移民(開拓団)が送り込まれた。


滅亡

  • 1945年、ソ連軍が満州に侵攻(日ソ中立条約を破棄して対日参戦)。

  • 日本が第二次世界大戦に敗北し、満州国も崩壊。

  • 溥儀はソ連に捕らえられ、満州国は正式に消滅。


歴史的評価

  • 満州国は国際法的には「違法な侵略国家」とされる。

  • 日本の帝国主義・軍国主義の象徴的存在として語られることが多い。

  • 現代中国では、日本の侵略行為の一例として強く非難されている。




Q.なぜ関東軍は満州国を建国しとうと思ったのですか?

とても良い質問です。
関東軍が満州国の建国を目指した理由は、複数の政治的・経済的・軍事的な思惑が重なっており、単なる「領土拡張」ではありませんでした。以下にその主な理由を詳しく説明します。


満州国建国の主な理由(関東軍の狙い)

1. 資源の確保(経済的理由)

  • 満州は鉄鉱石・石炭・森林・農地など資源が非常に豊富な地域でした。

  • 日本は当時、資源に乏しい島国であり、工業化・軍備拡張を進めるには満州の資源が不可欠と考えられていました。

  • 特に、世界恐慌(1929年以降)による経済不況が背景にあり、**植民地経済圏(「満蒙は日本の生命線」)**という発想が強まりました。


2. 勢力圏の拡大と防衛線の構築(軍事的理由)

  • 関東軍は、日本の大陸における軍事的・戦略的プレゼンスを確保したいと考えていました。

  • ロシア(後のソ連)や中国の軍閥勢力の拡大を警戒し、**「満州を取らねば日本の安全が脅かされる」**という危機感がありました。

  • また、日本本土を防衛する「緩衝地帯」として満州を自国の勢力下に置くことが狙いでした。


3. 日本国内政治の不安定と軍部の暴走(政治的背景)

  • 当時の日本では、軍部(特に陸軍)が政治を強く牽引しており、政府よりも軍の判断が優先されるような風潮がありました。

  • 関東軍は本国政府の命令を無視して、独断で満州事変を起こし、その後に満州国を建てるという暴走的な行動に出ます。

  • 軍部は満州国を成功させることで、国内での発言力や権威を高めようとしました。


4. 民族統合・理想国家の建設という名目(プロパガンダ)

  • 五族協和(漢・満・蒙・回・日)」というスローガンを掲げ、多民族が協力する理想国家を建てるという建前がありました。

  • しかし、実際には日本人による支配体制が敷かれ、他の民族にはほとんど実権がありませんでした。

  • これは、国際社会に「侵略ではない」と印象付けるためのプロパガンダの一環です。


まとめ:関東軍の満州国建国の動機は?

日本の利益と安全を守るため」という大義名分のもと、
実際は「資源確保・軍事支配・帝国主義的拡張」を目的としたもの。


関東軍の行動は結果として、国際的孤立(国際連盟脱退)日中戦争・太平洋戦争につながる重要な転換点でした。




Q.満州国建国に関わった人物はどんな人ですか?

満州国の建国に関わった人物たちは、日本側・中国側の双方におり、それぞれの立場や動機も異なります。以下に主要人物をわかりやすく紹介します。


日本側の中心人物たち

1. 石原莞爾(いしわら かんじ)

  • 陸軍中佐 → 後に少将

  • 満州事変の首謀者の一人。関東軍の作戦参謀。

  • 満州国建国を「東亜の理想国家建設」と位置づけたが、実際には日本の拡張を正当化する理論だった。

  • 理想主義的側面も持ち、満州国を「世界最終戦争に備える地」と考えていた。

特長:戦略家タイプ。知性派だが過激な軍事思想を持っていた。


2. 板垣征四郎(いたがき せいしろう)

  • 陸軍大佐 → 後に関東軍参謀長

  • 石原とともに柳条湖事件(1931)を計画・実行。

  • 日本政府の許可なく独断で軍事行動を進めた「軍部の暴走」の象徴。

  • 戦後、東京裁判で有罪となり、絞首刑

特長:行動力重視の武断派。石原と対照的に現場主導型の軍人。


3. 東条英機(とうじょう ひでき)

  • 当時、関東軍憲兵隊長。

  • 満州国統治の秩序維持・治安対策に関与。

  • 後に陸軍大臣・首相となり、太平洋戦争の主導者に。

特長:満州での経験が後の権力獲得の土台に。


中国(満州)側の関係者

4. 愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)

  • 清朝最後の皇帝(光緒帝の弟・宣統帝)

  • 日本に利用されて**満州国の執政(後に皇帝)**に。

  • 権力はほとんどなく、日本の操り人形(傀儡)に過ぎなかった。

  • 戦後、ソ連に連行→中共の再教育を受け、晩年は一般市民として生涯を終えた。

特長:没落した元皇帝。国を失った王がもう一度「皇帝」に戻れるという誘惑に負け、日本に協力。


5. 鄭孝胥(てい こうしょ)

  • 満州国の初代国務総理(首相的立場)。

  • 中国人官僚だが、日本に協力し満州国建設を支援。

  • 満州国の理念にある程度共鳴していたとも言われる。

特長:理想主義を信じたが、結果的に日本の操り人形政権に加担。


補足:その他の関与者

  • 甘粕正彦(あまかす まさひこ):元憲兵将校。満州映画協会を通じて文化支配に関与。

  • 松岡洋右(まつおか ようすけ):外務官僚。国際連盟脱退時の代表。外交面で満州国を擁護。


まとめ:どんな人が関わったのか?

分類 主な人物 特徴
軍人 石原莞爾、板垣征四郎 軍事戦略と実行。国家の枠組みを作った。
官僚 鄭孝胥、甘粕正彦 政治や文化統治を担った。
傀儡君主 溥儀 表面的な元首として利用された。
外交官 松岡洋右 国際社会で満州国の正当性を主張した。




Q.満州国の運営に関わった人にはどんな人がいますか?

満州国の「運営」に関わった人々は、大きく分けて次の3つのグループに分類できます:


1. 日本人官僚・軍人(実質的な支配者)

満州国は形式上は「独立国」でしたが、実権はすべて日本の関東軍と官僚機構が握っていました。運営の中心は、主に以下のような人物たちです。

? 関東軍関係者(治安・行政・軍事を支配)

  • 東条英機:当時は関東軍憲兵隊長。住民統制・思想弾圧など治安政策に関与。

  • 板垣征四郎:軍事的実力行使で満州国建国を実現させた人物。建国後も関東軍幹部として影響力を持った。

  • 石原莞爾:建国構想の中心人物の一人。初期は「理想国家建設」を掲げたが、後に関東軍内部で孤立。

関東軍はあくまで軍人ですが、満州国では「最高権力者」として行政にも強く関与していました。


? 満鉄・企画院出身の日本人官僚(テクノクラート)

  • 岸信介(きし のぶすけ):後の日本の首相。満州国では「産業開発五カ年計画」を立案・推進。
    → 満州国での経験が、戦後日本の経済政策の基盤に。

  • 星野直樹(ほしの なおき):満州国国務院総務庁長官(日本でいう内閣官房長官的ポジション)。行政全般を統括。

統制経済」や計画経済の運営で、日本人官僚が直接制度設計を行った。


2. 中国人協力者(形式的な顔役)

? 溥儀(ふぎ)

  • 元清朝皇帝で、満州国の執政・皇帝に。

  • 実際の政治権限はなかったが、中国人を従わせる象徴として利用された。

? 鄭孝胥(てい こうしょ)

  • 初代国務総理(首相格)。溥儀と共に満州国政府を支える中国人知識人。

  • 「日本の庇護のもと中国文化を守れる」と信じて協力。

? 張景恵(ちょう けいえい)

  • 満州国の軍政を担当。かつての奉天軍閥の軍人で、日本に従属して地位を確保。

中国人は表面的な政府役職に就いていたが、意思決定権はなかった。


3. 民間の日本人移民・実務者

  • 満州には数十万人の日本人が移住し、開拓民・鉄道員・警察官・教師・技師などとして満州国の制度を支えました。

  • 多くは善意で移住した人々でしたが、現地中国人や朝鮮人との摩擦や差別もあった。


満州国の統治の仕組み(誰が運営していた?)

部門 実務担当 実際の権力者
国家元首 溥儀(形式的) 関東軍が操る存在
行政(政策立案) 日本人官僚(岸信介・星野直樹など) 日本政府・関東軍
治安・軍事 関東軍 関東軍
経済・開発 満鉄・日本の技術者・官僚 日本の産業官僚
中国人協力者 鄭孝胥・張景恵など 顔役・象徴的ポジション

まとめ

満州国の運営に関わったのは、日本の軍人・官僚・技術者たちが中心で、
中国人は「見せかけの政府」に起用されたが、実権はなかった

満州国は、日本が理想国家をうたいながら、実際には植民地支配を制度化した典型例といえます。




Q.日本から満州国への移民にかかわった人にはどんな人がいますか?

日本から満州国への移民に関わった人たちは、政府・軍・民間それぞれにおいて大きな役割を果たしました。特に1930年代以降、「満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)」という国家事業のもとで、多くの日本人が中国東北部へと送り出されました。以下では、移民政策に関わった主要人物と団体、その目的・背景を紹介します。


日本からの移民に関わった人たち


1. 政府・官僚の主導者たち

? 岸信介(きし のぶすけ)

  • 当時、満州国の産業開発に深く関与していた官僚。

  • 満州国での移民政策(農業開拓、産業殖民)に理論的・制度的な基礎を作った。

  • 戦後は日本の首相に就任し、「昭和の妖怪」とも呼ばれた。

移民を単なる「農業政策」ではなく、国家の植民事業・国防政策として構想していた。


? 星野直樹(ほしの なおき)

  • 満州国国務院の総務長官(満州国行政の中枢)。

  • 農村振興・治安政策などの面で移民政策と密接に関与。


2. 関東軍と陸軍関係者

? 関東軍全体(特定個人より組織として)

  • 移民政策を「国防の一部」と位置づけ、農業移民を「武装民」として扱う構想を持っていた。

  • 移民先では日本人による自治村(開拓団)が設置され、中国人や現地人を排除する形で「国防村落」を形成。


3. 民間・農村指導者たち

? 満蒙開拓青少年義勇軍の創設・指導者たち

  • 1937年から始まった「青少年義勇軍制度」は、15〜17歳の少年を集団で満州に送り出す制度

  • 文部省や農林省、地方青年団、旧村会などが連携して実行。

  • 地方の青年団幹部、教師、農会職員などが人材募集と育成を担当。


? 石黒忠篤(いしぐろ ただあつ)

  • 元農林大臣・農政官僚。

  • 農村復興政策の一環として「満蒙移民」を推進。

  • 国内の農村不況の解決策として満州移民を積極的に提唱。


移民として満州に渡った人々

? 誰が渡ったのか?

  • 主に農村部の貧しい人々:失業者、次男・三男(家を継げない者)、地主の子弟など。

  • 青少年義勇軍:15歳前後の若者を中心に約8万人が派遣された。

  • 家族移民:戦争が進むにつれ、家族ごと移住する農民が急増(特に1930年代後半?1940年代前半)。

  • 技術者・教師・警察官・医者なども多く派遣された。


満州移民の目的

分類 内容
国防目的 中国やソ連に対する**緩衝地帯(防衛線)**を作る
経済目的 満州の土地を農業・鉱業・工業に活用し、日本の資源不足を補う
社会目的 国内の農村不況や人口過剰(特に東北地方)を解消する
イデオロギー 大東亜共栄圏構想に基づく「アジアの理想国家づくり」の一環とされた


? 結末と評価

  • 日本の敗戦(1945年)により、移民は突然の帰国・引き揚げを強いられた。

  • 多くが中国大陸に取り残され、略奪・暴行・餓死・捕虜などの過酷な経験をした。

  • 棄民政策(国に捨てられた民)」という批判もある。


まとめ

関わった人たち 主な役割
岸信介・星野直樹 制度設計と移民政策の企画・推進
関東軍 移民を国防政策として実行
地方農政官・青年団 移民候補者の募集・教育
移民本人(農民・青少年) 理想や貧困から新天地を求めて移住




Q.満蒙開拓青少年義勇軍を創設した人はどんな人ですか?

満蒙開拓青少年義勇軍(まんもうかいたくせいしょうねんぎゆうぐん)」を創設した中心人物は、主に政府の農政官僚・教育官僚・軍人たちでした。特定の一人が「創設者」として名を残しているわけではありませんが、その構想・実施に深く関わった人物を以下に紹介します。


満蒙開拓青少年義勇軍とは?

  • 1937年(昭和12年)開始

  • 主に15〜17歳の男子少年を対象に、日本各地の農村から集められ、数か月の訓練後、満州に送り込まれた。

  • 建前は「農業開拓」だが、実質的には「準軍事組織(国防要員)」。

  • 戦争末期には約8万人以上が派遣された。


創設に深く関わった主な人物

1. 石黒忠篤(いしぐろ ただあつ)

  • 元農林省官僚・農政学者。

  • 農村の困窮に危機感を持ち、満州への移民を日本の農政と結びつける提案者

  • 青少年義勇軍の基盤となる「農村青年の海外移住」を推進。

ポイント:義勇軍という制度の「思想的支柱」として、農業移民の国策化を後押し。


2. 武部六蔵(たけべ ろくぞう)

  • 青年団関係者、後に文部省官僚。

  • 義勇軍の訓練・教育のカリキュラムや運営体制に関与。

  • 教育的視点から「皇民化教育」や忠君愛国の精神注入を主張。


3. 陸軍省関係者(特に関東軍)

  • 義勇軍は軍の指導・監督のもとに置かれていた

  • 名目上は文部省・農林省など民間的なルートから出発するが、訓練や実施は軍事色が強かった。

  • 特定の軍人ではなく、陸軍省・関東軍全体の国防計画の一部として設計された。


支援・協力した組織

組織名 役割
農林省 移民制度の企画・募集計画
文部省 教育指導・精神訓練の設計
陸軍省/関東軍 国防目的に基づいた訓練・派遣
青年団(地方団体) 義勇軍候補の募集・動員


義勇軍の少年たちはどう選ばれた?

  • 主に東北・北陸・九州などの農村部の中学生卒業者

  • 「新天地で成功できる」「国に尽くせる」と教育された。

  • 家が貧しく進学・就職できない少年たちが中心。


まとめ:誰が義勇軍を作ったのか?

役割 人物・組織
構想者 石黒忠篤(農政官僚)
教育・思想設計 武部六蔵(青年団・文部省関係者)
訓練・派遣 陸軍省・関東軍
募集・勧誘 青年団、地方行政、教師

一人の創設者ではなく、**国家総動員体制の中で作られた「戦時型組織」**と理解すると正確です。



Q.石原莞爾は東京裁判ではどうなりましたか?

石原莞爾(いしわら かんじ)は、東京裁判(極東国際軍事裁判)では起訴されませんでした。つまり、「戦犯」として裁かれることはありませんでした。


石原莞爾と東京裁判の関係

? 起訴されなかった理由

  1. 早期に軍部と対立し失脚していた

    • 石原は1930年代後半には、他の陸軍主流派(特に東条英機ら)と対立し、満州事変後の出世コースから外れていました。

    • 特に「日中戦争や対米戦争に反対」する立場を取り続けていたため、「開戦の主導者」とは見なされなかった。

  2. 思想的にユニークでアジア侵略には慎重

    • 満州事変を主導した一人ではあるが、その後の拡大戦争(中国全土への侵攻や太平洋戦争)には反対していた。

    • 一部の連合国側からは、石原を「戦争拡大を抑えようとした人物」と評価する意見もあった。

  3. 健康問題と晩年の政治的影響力の低さ

    • 戦後の石原は肺病を患い、政治的影響力もなく、裁判に出す意義が薄いと判断された。


? 東京裁判で起訴されたのは誰?

  • 東京裁判で起訴されたのは 「A級戦犯」28名(軍・政府のトップ層)。

  • 例:東条英機、広田弘毅、松井石根、板垣征四郎、土肥原賢二 など。

  • 石原莞爾は、彼らとは一線を画す立場にいたと見なされました。


石原莞爾の戦後の姿勢

  • 裁判後も「日本の軍部が暴走した」と批判し、東条英機を強く非難していました。

  • 昭和天皇の戦争責任にも言及するなど、戦後は「批判的な立場の軍人」として一部知識人に注目されました。


その後の運命

  • 1949年に病気(肺病)で死去。享年59歳。

  • 晩年は山形県酒田でひっそりと暮らしていました。


? まとめ

内容 詳細
東京裁判での扱い 起訴されず、裁かれなかった
起訴されなかった理由 開戦に反対、軍部主流派と対立、影響力の低下
戦後の活動 戦争責任論や軍部批判を展開
死亡 1949年、肺病により逝去




Q.終戦時、開拓民はどうなりましたか?

終戦時(1945年8月15日)を迎えた際、満州(中国東北部)に住んでいた日本人開拓民たちは、非常に過酷で悲惨な運命をたどることになりました。

彼らは「棄民(きみん)された民」「忘れられた戦争犠牲者」とも言われます。


状況の流れ(終戦前後)

1. 1945年8月9日:ソ連軍が満州に侵攻

  • ヤルタ協定に基づき、ソ連が日ソ中立条約を破棄し、満州に奇襲侵攻。

  • 開拓地は無防備で、関東軍は民間人を見捨てて逃走

  • 多くの開拓民が逃げ惑い、「集団自決・飢死・虐殺」などの悲劇が発生。

2. 8月15日:日本、ポツダム宣言受諾(終戦)

  • しかし満州では混乱が続き、治安は完全に崩壊

  • 現地では中国人の「復讐行為」やソ連兵の略奪・暴行も多発。


開拓民の被害の実態

被害の種類 内容
殺害・暴行 ソ連兵による強姦・略奪、中国民衆による報復(反日感情)
飢えと寒さ 山中への避難生活で多数が餓死・凍死
集団自決 「捕まるよりまし」として、村単位での自殺も複数記録あり
子どもたちの被害 「満州孤児」「中国残留孤児」として親と離れ離れになり、取り残された


開拓民のプロフィール

  • 満蒙開拓団(農民移民):約27万人(うち4万人が死亡)

  • 一般民間人(企業・鉄道関係者など)を含めると約150万人の日本人がいたとされる。

  • 特に被害が大きかったのは「婦女子と子ども」。男性は多くが戦地へ徴兵されていた。


? 日本への引き揚げ(1946?1948年)

  • 終戦後、満州に取り残された人々は、順次ソ連・中国共産党・国民党などの管理下で**日本へ強制送還(引き揚げ)**された。

  • 最終的には約120万人が帰国したが、引き揚げまでに数十万人が命を落としたとされる。

  • 約2,000人以上の子どもが「中国残留孤児」となり、戦後何十年も日本に戻れなかった。


開拓民の証言(例)

「父も兄も戦争に行って、村には母と私と妹だけ。逃げるとき、ソ連兵が追ってきた。妹は山の中で凍え死んだ。母は私を抱きしめて泣いていた……」
? 満州からの引き揚げ者の回想(80代女性)


まとめ:終戦時の開拓民の運命

項目 内容
状況 ソ連の侵攻と関東軍の撤退により無防備状態に
被害 殺害・暴行・餓死・集団自決・孤児化
生存者の運命 数年かけて日本へ引き揚げ、もしくは中国に残留
歴史的評価 国家に「見捨てられた存在」として戦後も長く苦しんだ




Q.どうして関東軍は民間人を見捨てて逃走したのですか?

関東軍が満州の民間人(特に開拓民)を見捨てて逃走した背景には、いくつかの現実的かつ深刻な理由があります。決して単なる「怠慢」や「無責任」だけではなく、戦局・戦略・思想・組織の崩壊が重なって起きた悲劇でした。


背景:1945年8月の状況

ソ連の電撃侵攻(1945年8月9日)

  • ソ連は「日ソ中立条約」を破って、突如満州に侵攻。

  • 侵攻した兵力は 150万以上の大軍。しかも最新の戦車・火砲・航空機を備えた精鋭部隊。

  • 満州国の防衛を担っていた関東軍は、兵力・装備ともに圧倒的に劣勢だった。


?なぜ民間人を守れなかったのか?関東軍の逃走の理由


1. 軍の戦力がほとんど残っていなかった(虚構の軍)

  • 終戦直前の関東軍は、優秀な部隊のほとんどが本土や南方戦線に転出しており、残っていたのは老兵・少年兵・農民兵。

  • 鉄道も装備も不足し、事実上「戦えない軍隊」だった。

つまり、**関東軍は“看板だけ立派な亡霊のような軍隊”**だった。


2. 民間人の避難計画が存在しなかった

  • 戦時下にもかかわらず、一般開拓民の避難マニュアルも組織も一切用意されていなかった

  • 軍の任務は「国防」であり、民間人保護は優先されていなかった

  • 満州の広大な土地に点在する村々を「組織的に守る」ことは、物理的に不可能だった。


3. 軍上層部の命令系統が崩壊していた

  • ソ連の侵攻があまりにも急で、司令部すらパニック状態に陥った。

  • 各部隊が命令なく独断で撤退するケースが多発。

  • その結果、**民間人の存在を放置したまま各地で「勝手に逃げた」**という印象が強まった。


4. 「戦え」という命令自体がなかった

  • 大本営からの指令は「満州は捨ててもよい」「本土決戦が優先」。

  • つまり、満州に残った者も防衛戦を想定していなかった

  • 実際、8月9日の侵攻から8月15日の終戦までの約1週間、関東軍は一部を除き、ほぼ無抵抗で崩壊した


5. 軍と民間の「意識の差」

  • 軍は「国家のために戦う組織」であり、民間人の保護は二の次だった。

  • 特に開拓民は「自分たちの土地を自分で守る」という建前で送り込まれたため、軍は彼らに過剰な期待をしていた。

  • 結果的に、「守るべき住民」ではなく「自己責任の存在」と見なされた。


結果:開拓民はどうなったか?

被害内容 詳細例
保護されず逃げ遅れ 軍の撤退とともに情報も断たれ、逃げる手段すらなかった人が多数
ソ連兵による暴行 略奪・強姦・虐殺などの戦争犯罪が各地で発生
山中で餓死・凍死 自力で逃げた人も食糧・防寒具がなく、数万人が犠牲に
中国人の報復 長年の恨みから、元住民による日本人への襲撃・報復も起きた


戦後の評価と反省

  • 関東軍は「自分たちだけが逃げた卑怯者」という強い非難を受けた。

  • 開拓民の多くは「国家に捨てられた」という強烈な記憶を持ち帰国。

  • 日本政府も戦後しばらくはこの問題に正面から向き合わなかった。


? まとめ

原因 内容
戦力の不足 主力部隊は転出済み、実質的に無力化
避難計画の不備 民間人避難は想定外、軍に保護任務なし
指令系統の崩壊 パニックによる指揮崩壊、無秩序な撤退
軍の思想的限界 民間人保護より国家命令・撤退を優先
結果 数万人が見捨てられ、飢えや暴力、混乱の中で命を落とした




Q.関東軍の責任論や戦後の裁判について説明してください。

関東軍の「責任論」と「戦後の裁判」について説明します。


まず整理:関東軍とは?

  • 関東軍(かんとうぐん)は、日本陸軍最大の海外駐留軍で、主に中国東北部(満州)を占領・支配していました。

  • 1931年の満州事変を引き起こし、満州国を建国。中国大陸への戦争拡大の先頭に立ちました。

  • しかし1945年、ソ連の侵攻に対して機能せず崩壊。民間人を置き去りにしたことで非難されました。


? 関東軍の戦後責任:2つの側面から

1. 軍としての戦争責任

関東軍は、

  • 満州事変(1931)

  • 満州国建国(傀儡国家)

  • 日中戦争の拡大

  • 捕虜虐待・民間人迫害(731部隊など)

など、日本の中国侵略の「主犯格」として、多くの戦争責任を問われる存在でした。

2. 敗戦時の無責任な行動への道義的責任

  • 満州に住む日本人民間人(約150万人)を放置して逃走した。

  • 特に開拓民(農民・女性・子ども)への保護体制が皆無だったことは道義的な大問題とされました。


? 戦後の裁判:誰が裁かれたのか?

1. 東京裁判(極東国際軍事裁判)

  • 関東軍の「個人」として裁かれたのは一部のみです。

  • 主に裁かれたのは次のような人物:

名前 内容
板垣征四郎 関東軍参謀。満州事変を指導し「A級戦犯」として処刑。
土肥原賢二 特務機関の長。中国工作などに関与。「A級戦犯」として処刑。
松井石根 中国戦線の指揮官(南京大虐殺に関与)。処刑。

東京裁判では、軍の「組織」ではなく、「個人」が裁かれた

2. BC級戦犯裁判(地方軍事法廷)

  • 日本が降伏した各地で、連合国が開いた裁判。

  • 関東軍に所属していた一部の将校・医官(731部隊含む)は中国・ソ連などで裁かれました。

? 例:ハバロフスク裁判(ソ連・1949年)

内容 詳細
対象 731部隊など関東軍の「生体実験」「細菌兵器」の関係者
主要人物 石井四郎(部隊長)は不起訴。中将・大佐級が裁かれた
裁判の性質 宣伝色が強いが、実際の証言・証拠も多く残された

一部は「人体実験の事実」を認め、有罪判決。

責任追及が不十分だった理由

  1. アメリカが情報を利用した

    • 米軍は、731部隊の細菌兵器研究データが有用だと判断し、関係者を免責して情報を入手。

    • 石井四郎(部隊長)などは裁かれず、戦後静かに暮らしました。

  2. 冷戦の始まり

    • 1947年頃から米ソ対立が始まり、**中国・ソ連の裁判は「共産圏のプロパガンダ」**として軽視されました。

    • 結果として、多くの関東軍関係者が戦争責任を問われず生き残った。


その後の社会的評価

時代 評価・動き
1950?60年代 「国を守るためだった」「犠牲もやむをえない」など、責任が曖昧にされた
1980年代? 開拓民や残留孤児の証言が出始め、再評価される
現代 関東軍の無責任体制・暴走主義が、侵略と敗戦の一因だったと批判される


? まとめ

観点 内容
法的責任 一部の関東軍高官が東京裁判・BC級戦犯裁判で処刑・服役
道義的責任 民間人放置・暴走行為での責任は重く、戦後長く問題視
責任追及の限界 米ソ冷戦や政治的理由により、多くの関係者が裁かれず
歴史的評価 「暴走する軍部」の象徴として、今日では深い批判対象になっている




Q.当時の政府は、満州にいる民間人についてはどのように考えていたのですか?

当時の日本政府(特に戦争末期)は、満州にいる民間人――とくに開拓民や在留邦人――についての配慮が極めて不十分で、事実上「捨て駒」のように扱っていたと評価されることが多いです。政府の基本姿勢は、戦後の証言や資料から見ても「防衛も避難も想定せず、最優先事項ではなかった」ことが明らかになっています。


政府の基本姿勢(戦争末期)

目的:国体護持・本土決戦の準備

  • 1945年、日本政府の最大の関心事は「いかに本土決戦に備えるか」。

  • 満州はもはや“本土から遠すぎる”とされ、防衛の優先順位は低かった。


民間人に対する具体的な政策や扱い

1. 避難計画の欠如

  • 満州には約150万人の日本人がいたが、政府主導の避難計画はほぼ存在しなかった

  • 一部、企業や鉄道関係者に対しては自主的な引き揚げが促されたが、開拓民や婦女子は置き去り

「政府は本土決戦準備に集中し、外地在留邦人の保護や引き揚げ計画は事実上放棄された」
? 戦後の厚生省報告書(1950年代)


2. 国策としての「満蒙開拓」推進の裏返し

  • 開拓民は「国策移民」として送られたが、その背景には次のような誤解があった:

    • 「満州は永遠に日本の支配下にある」

    • 「農地を耕し国境を守る“兵士の代わり”になる」

  • つまり、民間人を“準軍事的存在”とみなしていた

「開拓民は“満州防衛の楯”となるべき存在である」
? 当時の拓務省関係文書より


3. ソ連参戦を見誤った判断

  • 政府・軍部ともに「ソ連は中立を守る」と最後まで楽観視。

  • ソ連が8月9日に突如参戦したことは、政府にとって想定外。

  • その結果:

    • 関東軍に民間人保護の命令が出されない

    • 緊急避難指示も間に合わなかった


4. 終戦時の政府対応:放置・混乱・責任転嫁

  • 終戦後、満州に取り残された民間人の救出はソ連・中国に委ねられ、政府は事実上「手を出せなかった」

  • 多くの民間人が犠牲になったことに対し、政府は戦後も長らく明確な謝罪も補償もしなかった

  • 残留孤児問題(中国残留日本人孤児)も、解決に40年以上かかる。


歴史学者の評価

「当時の日本政府は、満州在住邦人を“戦略資源”としか見ておらず、個々の命の重みを見ていなかった。彼らは“国策の犠牲者”である」
? 家永三郎(歴史学者)

「敗戦は突然ではなかった。にもかかわらず、政府は民間人保護の責任を果たさず、見殺しにした」
? 豊田穣『満州の星くず』


? まとめ:政府の考え方と現実

観点 内容
民間人への姿勢 満州の民間人は「国策の一部」「準兵士的存在」とされ、保護対象と見なされなかった
避難対応 ソ連参戦を読み誤り、避難計画も準備なし
責任の所在 終戦後も政府は開拓民・孤児問題に正面から向き合わず、被害者は長く苦しんだ
歴史的評価 「国家に捨てられた人々」「国家の責任放棄」として、強く批判されている

さらに知りたいテーマがあれば、次のようなことも掘り下げてお話しできます:

  • 拓務省(満州移民政策の実施官庁)の具体的な政策

  • 「満蒙開拓団」の募集背景と実態

  • 終戦後の政府による孤児・未帰還者の扱い

  • 補償問題と戦後日本社会の対応

どうしますか?




Q.関東軍は撤退をどの時期に決定したのですか?

関東軍が撤退を正式に決定したのは、1945年8月9日のソ連の対日宣戦・侵攻直後ですが、実際にはその数日前からすでに現地部隊レベルで「防衛を放棄し撤退する」動きが始まっていたとされています。


背景:関東軍とソ連侵攻

  • 1945年8月9日未明:ソ連が日ソ中立条約を破棄し、満州に全面侵攻(満州・朝鮮・樺太へ同時多方向から)。

  • この時、関東軍はほぼ戦える状態ではなかった


関東軍の撤退決定・経緯の流れ

8月5日ごろ:関東軍司令部、戦力不足に気づく

  • 「本格侵攻が来れば防衛は困難」との認識が内部で共有され始める。

  • しかし、明確な避難命令・撤退命令は出されていない

8月9日(ソ連侵攻開始)

  • ソ連軍の大規模攻撃により、国境守備隊が壊滅

  • この日の夕刻、関東軍司令部(新京)は実質的に満州防衛を断念。

  • 部隊ごとに南方・朝鮮方面へ撤退開始

? この時点で、民間人への避難命令は一切出ていません。


8月10日〜13日:各地で組織的撤退

  • 命令系統が崩壊し、多くの部隊は指示を待たずに自主的撤退

  • 一部司令官は、すでに現地の村や開拓団に対して**「自力で逃げろ」**と通告。

  • 鉄道・道路もパニック状態で、交通網が機能せず。


8月14日〜15日:終戦

  • 8月15日正午:玉音放送

  • しかし、満州の前線にはラジオや電報が届かず、多くの兵士や民間人が状況を把握できなかった

  • 関東軍は一部を除き、戦わずに降伏し、司令部も解体。


なぜ組織的撤退ができなかったのか?

理由 内容
@ 避難マニュアルの不在 民間人避難に関する事前計画がなかった
A 指揮命令の崩壊 通信遮断や司令官の逃走により命令系統が麻痺
B 時間のなさ ソ連の侵攻があまりに速く、準備する余裕がなかった
C 政策の錯綜 本土決戦優先の大本営指令と、関東軍の現実との乖離


? まとめ

時期 関東軍の対応
〜8月8日 ソ連参戦を軽視し、満州防衛を継続する姿勢
8月9日 ソ連侵攻開始、この時点で事実上の撤退方針決定
8月10日〜13日 多くの部隊が命令なしに独自行動で撤退
8月14日〜15日 終戦により、組織としての関東軍は事実上崩壊し、降伏

補足:多くの歴史研究では、「撤退の意思決定が遅すぎた」「防衛も避難も放棄された」ことが、満州開拓民らの大量死・惨事を招いた重大な要因とされています。

必要であれば、当時の関東軍司令官(山田乙三大将)や、撤退命令に関する一次史料などもご紹介できます。ご希望はありますか?