クビライ汗が日本にもたらした国書の内容

Q.クビライ汗が日本にもたらした国書の内容は?

クビライ(フビライ)・ハンが日本にもたらした国書の内容は、主に以下のようなものでした。

概要

クビライ・ハン(元の初代皇帝)は、日本に対して朝貢を求める国書を送っています。彼はモンゴル帝国の支配を拡大し、周辺国との外交関係を築こうとしました。特に、中国(南宋)攻略の前に日本との関係を確立しようと考え、使者を派遣しました。

国書の主な内容

  1. 元(モンゴル帝国)の強大さを示す

    • モンゴルが強大な国であり、多くの国がその徳を慕っていることを強調。

  2. 日本との友好関係を築きたいという意思

    • 日本と平和的な関係を築き、貿易や交流を進めたいという意図を表明。

  3. 朝貢を求める

    • 日本が元に使者を送り、朝貢(貢ぎ物を献上すること)を行うことを求める。

  4. 従わなければ武力行使の可能性を示唆

    • 日本がこれに応じない場合、戦争になる可能性を示唆する含みを持たせた表現が使われた。

結果

日本側(鎌倉幕府・執権北条時宗)はこの国書を無視し、返答をしませんでした。その結果、クビライは1274年の文永の役、1281年の弘安の役と二度にわたり日本遠征(元寇)を行いましたが、いずれも失敗に終わりました。

この国書の内容は、日本にとってモンゴルとの関係を考えるうえで重要な歴史的資料となっています。




Q.朝貢を行うことを求めるとは?

**朝貢(ちょうこう)**とは、ある国が他の強大な国に対して敬意を示し、貢ぎ物を献上することで、その国との外交関係を築く制度のことです。特に中国の歴代王朝やモンゴル帝国(元)は、周辺諸国に朝貢を求めることがありました。

朝貢の具体的な意味

  1. 従属関係の確認

    • 朝貢する国は、形式的に「元(モンゴル)の支配を認める」ことを意味します。

    • ただし、実質的には独立を維持する場合もあり、国によって対応は異なります。

  2. 貢ぎ物の献上

    • 日本が元に対して、特産品や貴重な品物(例えば、金・銀・真珠・工芸品など)を定期的に献上することを求められました。

  3. 冊封体制(さくほうたいせい)の一部

    • 元の皇帝(クビライ・ハン)が日本の支配者(鎌倉幕府)を「王」として正式に認める代わりに、日本が元の皇帝の権威を受け入れるという関係を築こうとした。

  4. 貿易・外交関係の確立

    • 朝貢を行う国には、元側からも返礼として品物が送られることがあり、結果的に貿易が活発化するケースもあった。

クビライ・ハンの意図

クビライ・ハンは、日本に朝貢を行わせることで、形式的にでも元の影響下に置こうとしました。当時、元はアジア各地の国々(高麗・ベトナム・チャンパ・南宋など)に同様の要求をしていました。しかし、日本(鎌倉幕府・北条時宗)はこの要求を拒否し、使者の返答もしませんでした。そのため、元は武力を行使して日本を屈服させようとし、**元寇(1274年・1281年)**へとつながったのです。

結論

「朝貢を求める」とは、日本に対し「元の支配を受け入れ、貢ぎ物を差し出すことで元と外交関係を持つように」という要求をしたことを意味します。これは、元が日本を間接的に支配下に置こうとする外交戦略の一環でした。




Q.間接的に支配下に置くとは?

**「間接的に支配下に置く」とは、直接的に軍事占領や行政管理をするのではなく、外交的・経済的な影響力を通じて他国を自国の影響下に置くことを指します。これは、当時の東アジアで広く行われていた冊封体制(さくほうたいせい)**の考え方に基づいています。


間接的支配の具体的な意味

  1. 君臣関係の確立

    • 朝貢を行う国(日本)が、元の皇帝(クビライ・ハン)を「天子」として認める。

    • 元の皇帝が日本の支配者(鎌倉幕府の執権・北条時宗など)を「日本国王」として正式に任命することで、日本が元の「臣下」となる形になる。

  2. 外交政策の影響

    • 朝貢国は元の承認を得て初めて正式な国家として認められるため、独立国家でありながらも、国際関係上は元の「支配下」にあるとみなされる。

    • 他国との外交方針においても、元の意向を無視しにくくなる。

  3. 経済的支配

    • 朝貢貿易を通じて、日本は元との交易を行うが、貿易ルールは基本的に元側が決めることになる。

    • これにより、日本の経済が元に依存する形になり、経済面での影響力が強まる。

  4. 軍事的圧力

    • 朝貢を続ける限り、元はその国を軍事的に攻撃しない。

    • 逆に、日本が朝貢を拒否すると、元は「命令に従わない国」とみなし、武力行使(元寇)を正当化することができる。


クビライ・ハンの狙い

クビライ・ハンは、日本を完全に征服して直接支配する(例えばモンゴルの直轄地とする)つもりはなかった可能性が高いです。しかし、日本が元に朝貢し、間接的にでも元の影響下に置かれることで、東アジアの支配体制をさらに強固にしようとしました。

これは当時のモンゴル帝国が行っていた他の国への外交政策と一致しており、例えば高麗(現在の韓国)は元に服属し、間接統治される形になったのと似ています。


日本の対応

日本(鎌倉幕府・北条時宗)は、このような間接的な支配を受け入れることを拒否し、元の使者を無視しました。これが最終的に**1274年の「文永の役」、1281年の「弘安の役」(元寇)**へとつながります。

結果的に、日本は元の軍事的圧力を退け、間接的支配も受けることなく独立を維持しました。


結論

「間接的に支配下に置く」とは、元が日本を完全に占領するのではなく、外交的・経済的な影響を通じて支配しようとしたことを意味します。これにより、日本が元に従属する形になり、元の権威をアジア全域に示すことが目的でした。