孝明天皇が攘夷思想を持つに至った理由

Q.孝明天皇は、どのようか経緯から攘夷思想を持つに至ったのですか?

孝明天皇が攘夷思想を持つに至った経緯は、19世紀中葉の日本国内外の情勢や、天皇自身の個人的背景と価値観が複雑に絡み合っています。以下にその主な要因を挙げます。


1. 黒船来航と開国の圧力

1853年にペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航し、開国を迫ったことで、日本は大きな衝撃を受けました。これにより、日本が外国勢力に対抗する準備ができていない現状が明らかになり、国内では攘夷(外国勢力の排除)を求める声が高まりました。

孝明天皇はこれを背景に、外国からの圧力が国の独立や伝統を脅かすと感じたと考えられます。当時の朝廷は、幕府の外交政策に直接介入する権限はありませんでしたが、天皇として国の伝統と尊厳を守る立場から、攘夷の考えを支持する方向に傾きました。


2. 尊王攘夷思想の流行

幕末期には、天皇を中心とする国家の再建を目指す「尊王攘夷思想」が武士階級を中心に広がっていました。特に、水戸学などの思想的影響を受けた志士たちが天皇の名を掲げて活動する中で、孝明天皇自身もこの思想の影響を受け、攘夷に共感を示すようになりました。


3. 朝廷の威信の高まり

江戸時代後期、幕府の権威が低下する一方で、朝廷の威信が再評価されつつありました。孝明天皇は、この状況の中で、自らの役割を果たそうとする意識を強く持っていたとされています。外国との交渉に慎重な幕府に対して、より強硬な姿勢を取ることで、天皇の存在感を示そうとしたとも言われています。


4. 幕府への不信感

孝明天皇は幕府が開国政策を進めることに対して強い不満を抱いていました。特に、日米修好通商条約(1858年)の締結が天皇の許可を得ずに行われたことは、孝明天皇にとって許しがたいものでした。この出来事は、天皇と幕府の溝をさらに深め、天皇が攘夷を主張する背景となりました。


5. 個人的性格と価値観

孝明天皇自身は保守的な性格であり、伝統的な価値観を重んじていたとされています。日本古来の文化や伝統を守ることを重視し、異国の文化や勢力が日本に影響を与えることに対して本能的な抵抗感を持っていたとも言われています。


まとめ

孝明天皇が攘夷思想を持つに至った背景には、黒船来航以降の外国からの圧力、国内で高まる尊王攘夷運動、幕府への不信感、そして天皇自身の保守的な性格と価値観が複雑に絡み合っています。特に、幕末の混乱期において、天皇は日本の独立と伝統を守る象徴的存在とされ、その立場から攘夷の考えを強く支持するようになったと考えられます。



Q.孝明天皇が頑なに攘夷思想凝り固まったために、幕府体制を壊してしまったといえるのではないですか?

孝明天皇の攘夷思想が幕府体制に影響を及ぼしたことは確かですが、それが直接的に幕府体制を壊したと断定するのは難しいです。孝明天皇の攘夷思想は、幕末の複雑な政治状況の中で重要な要素ではあったものの、それ自体が唯一の決定的な原因ではありません。以下に詳しく見ていきましょう。


1. 孝明天皇の攘夷思想とその影響

孝明天皇は攘夷を強く主張しましたが、それは単に幕府体制を壊そうとする意図ではなく、日本の独立や伝統を守ろうとする意図が背景にありました。
幕府に対して攘夷を求める圧力を加えたことは事実であり、その結果として幕府は一時的に攘夷決行を宣言するなど、外交政策に混乱をもたらしました。しかし、孝明天皇自身は幕府体制そのものを否定していたわけではありません。むしろ、幕府が天皇の意向を無視して外交を進めたことに対する不満が根本にありました。


2. 幕府体制崩壊の主因は複合的要因

幕府体制の崩壊は、孝明天皇の攘夷思想だけでなく、以下のような複合的要因によるものでした:

(1) 幕府の無力化

幕府が外交問題への対応や国内の不満を効果的に処理できなかったことが、体制の崩壊を招きました。特に、黒船来航以降の開国政策は、国内外の圧力の中で受動的に進めざるを得ず、幕府の権威を弱める結果となりました。

(2) 尊王攘夷運動の高まり

孝明天皇の攘夷思想は尊王攘夷運動を勢いづけた一因ではありましたが、全国の志士や藩が独自に展開した運動が幕府に大きな圧力をかけていました。特に、薩摩藩や長州藩といった有力な藩の動きが幕府体制を揺るがせる主因となりました。

(3) 経済的問題

幕府は財政難に苦しんでおり、経済的基盤の弱体化が幕府の統治能力を低下させました。攘夷思想の流行とは別に、経済的な問題が体制崩壊を加速させていました。

(4) 海外列強の圧力

開国後、欧米列強の圧力に対して効果的な対応ができなかったことも、幕府の権威を損なう一因となりました。攘夷実行が非現実的であることが明白になる中で、幕府はますます信用を失いました。


3. 孝明天皇の意図と結果の乖離

孝明天皇の攘夷思想が結果的に幕府体制の崩壊を助長した側面は否定できませんが、彼自身は幕府体制を意図的に破壊しようとしたわけではありません。むしろ、天皇は幕府に攘夷を実行させることで日本を守ろうとしたと考えられます。しかし、幕府が実際には攘夷を実行できなかったことで、天皇の権威が攘夷派志士たちによって利用され、結果的に幕府体制の崩壊を加速させることになったのです。


4. 結論:責任の所在と歴史の評価

孝明天皇の攘夷思想が幕府に大きな影響を与えたことは事実ですが、それをもって彼が幕府体制を壊したとするのは一面的な見方です。幕府体制の崩壊は、多くの要因が絡み合った結果であり、孝明天皇の攘夷思想はその一部に過ぎません。

むしろ、孝明天皇の思想や行動は、混迷する時代の中で日本の独立や伝統を守ろうとした努力と見ることもできます。その結果が幕府体制崩壊という形を取ったとしても、それは当時の状況の帰結であり、彼個人の責任とは言い切れないでしょう。



Q.孝明天皇は、自分の攘夷思想が、当時の国際情勢においては、まったくの無理筋であることを認識しなかったのです   か?

孝明天皇が攘夷思想を持ちながら、当時の国際情勢をどの程度正確に認識していたかについては議論があります。孝明天皇は攘夷を強く主張しましたが、彼の思想は国際的な現実を十分に踏まえたものではなく、むしろ日本の伝統や価値観、そして朝廷の役割に基づいた理想主義的な側面が強かったと考えられます。以下にその背景を詳しく見ていきます。


1. 孝明天皇の攘夷思想の基盤

孝明天皇の攘夷思想は、国際的な現実に基づくというよりも、以下のような国内的要因に根ざしていました:

(1) 伝統的価値観の重視

孝明天皇は保守的な性格であり、日本の伝統や文化を守ることを重視していました。幕末の開国や外国勢力の接近は、こうした価値観を脅かすものとして強く意識されました。

(2) 幕府への不信感

幕府が開国政策を進める一方で、外国勢力に対して受動的に対応していることが、孝明天皇の不満を招きました。このため、幕府に攘夷を求めることは、幕府を牽制する政治的な意味も持っていました。

(3) 尊王攘夷思想の影響

幕末の尊王攘夷運動は、朝廷を中心とする国家再建を目指すものであり、多くの志士や藩士が天皇の名を掲げました。こうした運動が天皇自身の思想にも影響を与えた可能性があります。


2. 国際情勢への認識不足

孝明天皇が攘夷の実現可能性をどの程度理解していたかについては、以下のような制約があったと考えられます:

(1) 情報の制約

当時の天皇は、現代のように自由に情報を得られる立場にはなく、国際情勢に関する情報も限定的でした。幕府や周囲の公家からの報告に依存していたため、外国の軍事力や技術力に関する理解が不十分であった可能性があります。

(2) 現実と理想の乖離

孝明天皇は、攘夷が現実的であるかどうかよりも、日本の独立や尊厳を守ることを優先していたと考えられます。このため、国際情勢における軍事的現実や外交的制約について深く認識していなかった可能性が高いです。

(3) 幕府の説明の不十分さ

幕府は外交交渉の詳細を必ずしも天皇に十分に説明していなかったため、孝明天皇が外国との力関係や日本の置かれた現実について正確に理解する機会が限られていたと思われます。


3. 攘夷の無理筋を指摘する声と天皇の姿勢

実際には、当時の有識者や幕府の官僚の中には、攘夷が現実的ではないことを認識していた人々もいました。たとえば、薩摩藩や長州藩の一部は、表向きは攘夷を掲げながらも、内心では開国や近代化の必要性を理解していました。

孝明天皇がこれらの現実的な声を完全に無視したわけではないかもしれませんが、攘夷の主張を撤回することはありませんでした。これは、天皇が攘夷そのものを現実的な政策というよりも、国の独立や威信を守る象徴的な立場として支持していた可能性を示しています。


4. 結論:認識不足と理想主義の狭間で

孝明天皇は、攘夷思想が当時の国際情勢において現実的でない可能性について十分に認識していなかったと考えられます。しかし、彼の主張は、必ずしも現実主義的な外交政策としてではなく、日本の伝統や独立を守るという理念的・象徴的な立場から生じたものでした。

結果的に、その思想は幕府や国内政治に影響を与えましたが、それが当時の国際情勢に適応したものであったとは言い難いでしょう。攘夷が無理筋であることを天皇が理解できなかった背景には、情報不足や周囲の政治状況、そして天皇自身の価値観が複雑に絡んでいたと考えられます。