Q.革命左派とは?
「革命左派(かくめいさは)」という言葉は、文脈によって意味が少し変わりますが、一般的には 社会変革を急進的・革命的手段によって実現しようとする左翼勢力 を指します。
大きく分けると次のように使われます:
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一般的な政治思想としての「革命左派」
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日本における「革命左派」
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特に1970年代初頭の新左翼運動の中で、「革命左派」を名乗ったグループが存在しました。
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代表例は 「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」 などで、これはのちに「連合赤軍」へ合流し、1972年の「山岳ベース事件」や「あさま山荘事件」に関わることになります。
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この場合、「革命左派」とは固有名詞で、ある種の武闘派新左翼組織を指します。
? まとめると:
ご質問は一般的な思想としての「革命左派」について知りたいですか? それとも日本の新左翼史に出てくる「革命左派」(連合赤軍関係)について知りたいですか?
Q.「革命左派」(連合赤軍関係)について知りたいです
なるほど!では、日本の新左翼史における 「革命左派」 について整理しますね。これは1970年代初頭に「連合赤軍」へ合流していった一派のことを指します。
革命左派とは(日本の新左翼史)
1. 起源
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正式には 「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」 という新左翼組織。
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日本共産党から分裂した新左翼諸派の流れのひとつで、毛沢東主義(中国共産党の思想)に影響を受けていました。
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1969年頃に、学生運動・労働運動の過激化の中で登場。
2. 主張・路線
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議会主義や漸進的改革を否定し、武装闘争による革命を志向。
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警察・国家権力との武力闘争を展開し、都市ゲリラ的な闘いを目指しました。
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そのため、デモや集会だけでなく、武器の製造・調達にも関与。
3. 連合赤軍への合流
4. 山岳ベース事件と崩壊
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1971年末?72年初頭、群馬県の山中に拠点を築き「軍事訓練」を開始。
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内部での「総括」=自己批判の強要が次第にエスカレートし、**同志リンチ殺人事件(山岳ベース事件)**が発生。
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その後、警察に追い詰められたメンバーが長野県の山荘に立て籠もったのが、**1972年の「あさま山荘事件」**です。
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この一連の事件で組織は事実上壊滅。
まとめ
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「革命左派」 = 「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」
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武装闘争路線をとる新左翼組織 → 赤軍派と合同 → 連合赤軍へ。
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連合赤軍内部の粛清(山岳ベース事件)やあさま山荘事件で壊滅。
ご希望があれば、
なども掘り下げられますが、どのあたりを深堀りしましょうか?
Q.「革命左派」は現在の日本共産党の一組織だったということですか?
いい質問です!
結論から言うと、「革命左派」は現在の日本共産党(JCP)の組織だったわけではありません。むしろ日本共産党から分裂した新左翼勢力のひとつです。
背景を整理すると:
1. 日本共産党(JCP)と新左翼
2. 「日本共産党(革命左派)」の名称
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革命左派は自らを「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」と名乗りました。
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これは「本来の革命路線を捨てて改良主義化した日本共産党(JCP)に対し、自分たちこそが真の共産党である」という主張を込めた名称です。
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しかし実際には、現在の日本共産党とは一切組織的なつながりはなく、むしろ対立関係にありました。
3. 現在との関係
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革命左派 → 赤軍派と合流 → 連合赤軍 → 壊滅(1970年代前半)
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したがって「革命左派」と呼ばれる組織は、現在は存在していません。
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現在の日本共産党は、こうした新左翼の武装闘争路線を強く批判し、自らは一貫して合法・議会路線を取っています。
? まとめると:
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「革命左派」は 日本共産党の一派ではなく、そこから分裂した新左翼組織。
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名称に「日本共産党」と付けたのは、自分たちこそ正統と考えたから。
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現在の日本共産党とは無関係で、むしろ敵対的でした。
ご希望なら、なぜ彼らが「日本共産党」という名前を残したのか(イデオロギー的理由)や、当時の共産党と新左翼の関係性(敵対・対立の実態)も詳しく解説できますが、掘り下げますか?
掘り下げ:なぜ「日本共産党(革命左派)」と名乗ったのか、JCPとの違い、経緯
まず端的に言うと、「日本共産党(革命左派)」は当時の日本共産党(JCP)から分かれた新左翼グループで、自分たちを「真正の共産党」だと主張する意味で『日本共産党』の名を付けていました。彼らはJCPの「議会路線」や穏健化(「改良主義化」との批判)を否定し、より急進的・武装的な路線を取ったために独自の党派名を用いた、ということです。ウィキペディア
1) 名称の意味 ? 「名乗った理由」
2) JCP(旧左翼)との決定的な違い
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路線の違い:JCPは戦後、特に1960年代以降は議会主義や合法的闘争を重視する路線に立ち、武装闘争や直接暴力を否定していました。一方で革命左派は武装闘争やゲリラ戦を正当化する立場を取りました。日本共産党+1
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国際的影響:革命左派には毛沢東主義(中国の路線)に影響された要素が強く、他方で連合赤軍側にはトロツキズム由来の赤軍派も混在するなど、国際的な左翼潮流(毛沢東主義/トロツキズム等)が錯綜していました。これがイデオロギー上の亀裂を深めました。警察庁+1
3) 連合赤軍への合流と急展開(1971?1972)
4) 「総括」と内部粛清 ? 何が起きたか
5) 結末と法的責任
6) 社会的評価・歴史的意味
ざっくり年表(要点)
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1960年代:安保闘争・全共闘運動の高揚 → 新左翼が分化・台頭。ウィキペディア
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1969頃:神奈川系の「日共(革命左派)」などが形成。ウィキペディア
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1971年7月頃:赤軍派と革命左派が合流 → 連合赤軍結成。ウィキペディア
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1971年末?1972年2月:山岳ベース事件(内部リンチで多数死亡)。毎日新聞+1
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1972年2月:あさま山荘事件(立てこもり・銃撃)。逮捕・裁判へ。Nippon+1
もしご希望なら、次のどれかをさらに深掘りします:
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@ 山岳ベース事件・裁判の経過を個々の被告ごとに(判決・上訴の流れ)詳述。ウィキペディア+1
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A 「革命左派」の思想的テキストや彼らが参照した毛沢東主義的文献の解説。警察庁
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B 当時の学生運動全体と新左翼の位置づけ(年表・図解)。東北大学機関リポジトリ+1
どれを深掘りしましょうか?あるいは、上の出典(記事や白書)を参照してほしい部分があれば教えてください。
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