堀田正睦が失脚した理由 |
Q.堀田正睦が失脚したのはどういう理由からですか? 堀田正睦(ほった まさよし)が失脚した背景には、幕末の複雑な政治状況や彼の政策が関係しています。主な理由を以下に挙げます: 1. 朝廷との関係悪化堀田は、安政の大獄の前に日米修好通商条約の勅許を得るために朝廷(孝明天皇)との交渉を試みました。しかし、朝廷は攘夷(外国排除)の方針を強く持っており、条約締結に対して難色を示しました。堀田の説得は成功せず、条約の勅許を得られないまま進めることになり、朝廷との関係が悪化しました。 2. 大老・井伊直弼との対立堀田は水戸藩や一橋派(徳川慶喜を擁立しようとする勢力)と比較的近い立場でした。一方、後に大老となる井伊直弼は徳川慶福(後の家茂)を支持しており、両者の政治的立場が対立しました。井伊直弼が大老に就任すると、堀田はその権力基盤を失う形となり、政治の中枢から遠ざけられました。 3. 安政の大獄への関与井伊直弼が主導した安政の大獄(1858年-1859年)では、反対勢力への弾圧が行われましたが、堀田は弾圧そのものには積極的に関与しませんでした。そのため、井伊直弼からの信任を得られず、さらに立場が弱くなりました。 4. 日米修好通商条約の影響堀田は外国との通商条約に積極的な姿勢を示しましたが、これが攘夷を求める世論や朝廷の意向と対立しました。この結果、国内の支持を十分に得られず、彼の政策は批判の対象となりました。 まとめ堀田正睦の失脚は、彼の政策が朝廷や攘夷派の意向に合致しなかったこと、井伊直弼の台頭による政治的対立、そして日米修好通商条約をめぐる状況が複雑に絡み合った結果です。幕末の政治は多くの勢力が複雑に絡み合っていたため、堀田の立場は弱まり、結果的に失脚に至りました。
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