普天間飛行場の全面返還

Q.96年末SACO合意において、普天間飛行場の全面返還が日米の間で合意されたのですか?

はい、1996年に日米間で交わされた**SACO合意(沖縄に関する日米特別行動委員会:Special Action Committee on Okinawa, SACO)**において、普天間飛行場の全面返還が合意されました

しかし、この合意には条件がありました。普天間飛行場を返還するためには、沖縄県内で代替施設を建設することが前提とされました。その後、移設先として名護市辺野古(へのこ)が選ばれ、計画が進められていますが、地元の反対運動や環境問題などから移設は長期にわたって難航しています。

つまり、「返還する」という合意はあったものの、代替施設が完成して運用開始されるまで普天間飛行場は返還されないという仕組みです。現在でもこの移設問題は沖縄の大きな政治的・社会的争点となっています。



Q.「沖縄県内で代替施設を建設すること」という条件を出したのは米国側ですか、
  それとも日本側から出たのですか?

「沖縄県内で代替施設を建設すること」という条件を出したのは、日本側からの提案でした。

SACO合意に至る背景として、普天間飛行場の危険性除去と負担軽減が大きな目的でした。しかし、在沖米軍の抑止力を維持する必要があるという考えから、日本政府が「県内移設」を提案し、米国側もこれを受け入れたのです。

日本政府としては、米軍の即応体制や日米安保の観点から「沖縄県外への移設」や「全面撤退」は難しいと判断しました。その結果、沖縄県内での代替施設建設を条件に返還を進める方針が打ち出されました。

また、地元自治体の理解を得るための政治的妥協もありました。当初、沖縄県内でも移設候補地がいくつか検討されましたが、最終的に名護市辺野古が選ばれたのは、地元への振興策や経済支援と引き換えに合意を得ようとした経緯があったからです。



Q.そのような提案を出したのは日本側とは、具体的には誰からですか?

「沖縄県内で代替施設を建設する」という提案を具体的に出したのは、日本政府ですが、その中心にいたのは当時の橋本龍太郎首相や、外務省、防衛庁(現在の防衛省)を含む政府関係者でした。

特に、橋本龍太郎首相はSACO合意の交渉に深く関与しており、普天間飛行場の返還を実現するために、米軍の抑止力を維持しつつ地元の負担を軽減する方法として「県内移設」を提案したと言われています。

また、交渉の実務レベルでは、外務省北米局防衛庁防衛局がアメリカ側と調整を行いました。彼らは日米安保の維持を重視し、米軍の運用に支障が出ないよう「沖縄県内での代替施設建設」という条件を提示したのです。

さらに、当時の沖縄県知事であった大田昌秀氏は普天間飛行場の返還を求めていましたが、県内移設には反対していました。結果的に、日本政府は「米軍の即応性を維持しつつ、沖縄の負担軽減を図る」という名目で、県内移設を米側に提案したのです。




Q.しかし、日本では一般に、「沖縄県内で代替施設を建設」という条件は、米国側から出されたものだと思っ  ています。どうしてこのようなねじれが生じたのでしょうか?

とても鋭い質問ですね。この「ねじれ」が生じた背景には、政治的な駆け引きや説明の仕方の違い、そして世論を意識した情報の伝え方が影響しています。その理由をいくつか挙げて説明しますね。

1. 米国の立場:抑止力維持を強調

米国は普天間飛行場の返還に同意する際、軍事的抑止力の維持を強く主張しました。特に、第三海兵遠征軍(III MEF)の即応性を確保するために、沖縄周辺に拠点を維持する必要があるという立場でした。

しかし、米国としては「普天間を返還するならどこに移すかは日本の責任だ」というスタンスでした。米軍は沖縄の地理的優位性を重視しており、「県内に移設するのが望ましい」という意向は持っていましたが、あくまで代替施設の場所を決めるのは日本側の役割と見ていたのです。


2. 日本の立場:負担軽減と抑止力維持の狭間での決断

一方で、日本政府は「普天間飛行場の危険性除去」と「沖縄の負担軽減」を目指しつつ、同時に「日米安保の維持」という難題を抱えていました。

その結果、橋本政権は「普天間返還」という成果をアピールするために、沖縄県内で代替施設を建設するという提案を行いました。これは、米国に抑止力を維持させつつ、普天間返還を早期に実現するための妥協案だったのです。


3. 日本政府の説明戦略:責任の転嫁

しかし、日本国内では沖縄の負担軽減を求める声が強く、県内移設には反発がありました。そのため、日本政府は**「米国が県内移設を求めたから仕方なかった」**という説明を行い、米国の要求に応じざるを得なかったという構図を作り出したのです。

この説明の仕方は、国内世論を意識したものと言えます。政府が「県内移設は日本側の提案だった」と正直に説明すれば、県民の反発がさらに強まる恐れがあったため、責任を米国に転嫁することで国内批判を和らげようとしたとも考えられます。


4. メディアと世論の影響

メディア報道でも「米国が県内移設を求めた」とする論調が強まりました。これは、日本政府の説明に加えて、「米軍基地問題=米国の責任」と捉えたい心理的なバイアスも作用したと言われています。

また、地元沖縄の反対運動では、「米国の押しつけ」というフレームが抗議の正当性を強めるために強調された側面もありました。このようにして、「米国が条件を押し付けた」という認識が広がったのです。


まとめ:ねじれの正体は「説明の違い」

  • 米国側は「抑止力維持が必要だが、移設先を決めるのは日本の責任」との立場。

  • 日本側は「返還を進めるために県内移設を提案」したが、反発を避けるために「米国の要求」と説明した。

  • メディアや世論の受け取り方が、「米国の押し付け」という見方を強めた。

この結果として、「米国の要求で県内移設が決まった」という認識が一般的になったのです。




Q.どうして日本のメディアは「米国の押し付け」というような受け取り方をしたのでしょうか?

日本のメディアが「米国の押し付け」という受け取り方をした背景には、いくつかの要因が絡み合っています。大きく分けて、歴史的文脈政治的な構図メディアの役割と視点が影響しています。詳しく説明していきますね。


1. 歴史的文脈:沖縄の米軍基地問題

沖縄は1972年に日本へ返還されるまで、27年間アメリカの統治下にありました。その間、米軍基地が急速に拡張され、地元住民の土地が接収されるなどの苦い歴史があります。返還後も、沖縄の基地負担が不公平に重いという不満が根強く残りました。

この背景から、「米国による基地の押し付け」という見方が、歴史的に根付いていたのです。SACO合意の際にも、普天間飛行場の返還が「県内移設」という形で進められることに対して、過去の文脈と重ねて「また米国の要求が押し付けられた」と解釈されたのです。


?? 2. 政治的な構図:日本政府の説明と責任転嫁

SACO合意当時、日本政府は**「抑止力維持のためには米軍の即応性が必要」と説明しました。しかし、県内移設に反発する沖縄県民感情を考慮し、政府は「米国側が県内移設を求めた」という説明をメディアに流した**とも言われています。

政府としては、「返還の実現」という成果をアピールしたい一方で、県内移設の責任を引き受けたくなかったのです。そのため、メディアには**「米国の強い要請に応じざるを得なかった」というニュアンスで情報が伝えられた**可能性があります。


3. メディアの視点:権力監視の役割と反米感情

メディアには、権力を監視する役割があります。当時の日本政府が「米国との合意」を強調していたことで、メディアは「米国に屈した日本政府」という構図を描きやすくなりました。

また、反米感情が影響したとも考えられます。沖縄の基地問題は象徴的な反米運動のテーマとなっており、基地反対派の声を重視した報道が多く見られました。特に沖縄の地方紙(琉球新報、沖縄タイムス)は、米軍基地に対して批判的な立場を取っており、「米国が押し付けた」という視点を強調しました。


4. わかりやすい構図:日米関係の非対等性

「米国が押し付けた」という見方は、単純でわかりやすいストーリーを作ります。日米関係において、日本が米国に従属しているという構図は、メディアとしても読者の共感を得やすく、センセーショナルな報道がしやすかったのです。

このため、メディアの論調が「米国の意向に従って日本政府が動いた」と強調され、やがてそれが一般的な認識となっていきました。


まとめ:ねじれの原因は複合的なもの

  1. 歴史的背景:沖縄の基地問題における米国の存在感が強すぎた。

  2. 政府の説明:責任回避のために「米国の要請」という説明を強調した。

  3. メディアの役割:反米感情や「権力監視」の視点から、米国を批判する構図を採用した。

  4. シンプルな物語性:米国=加害者、日本=被害者というわかりやすい対立構造が、報道の論調を決定づけた。

このように、政府の説明戦略、歴史的な背景、メディアの視点が交錯して「米国の押し付け」という受け止め方が生まれたのです。




Q.辺野古移設を提案したのは小泉政権ではないですか?

とても鋭い指摘ですね!実は、辺野古移設の原案が出されたのは橋本政権時代(1996年)のSACO合意ですが、辺野古移設を正式に進めることを決めたのは小泉政権です。順を追って説明しますね。


1. 橋本政権(1996年):SACO合意と移設先の検討

1996年に日米両政府は、SACO最終報告で普天間飛行場の返還に合意しましたが、その条件として「沖縄県内に代替施設を建設すること」が盛り込まれました。この段階では、まだ具体的な移設先は確定していませんでした。

当初、日本政府は複数の候補地を検討しましたが、「名護市辺野古沖」が最有力案となります。その理由は:

  • 米軍が求める運用条件を満たしていたこと。

  • 名護市が経済振興を見込んで受け入れる可能性があったこと。

とはいえ、1997年の名護市民投票で基地建設反対派が僅差で勝利するなど、地元の反発が根強く、橋本政権は明確に「辺野古に決定」とまでは踏み込めませんでした。


2. 小渕・森政権(1998?2001年):辺野古沖案が固まる

1999年、小渕恵三政権時に、**「辺野古沖に海上ヘリポートを建設する案」**が浮上し、日米間で合意されました。ただし、あくまで「海上ヘリポート」という案であり、普天間飛行場の全面的な機能移転には至りませんでした。

その後、森喜朗政権でも具体的な進展はなく、移設問題は長引くことになります。


3. 小泉政権(2001?2006年):辺野古移設を正式に決定

この状況が大きく動いたのが、小泉純一郎政権時代です。2002年に防衛庁(当時)が、普天間の代替施設を辺野古沿岸に建設する計画を正式に打ち出しました。

さらに、2006年の日米合意(「再編実施のための日米ロードマップ」)で、普天間飛行場の機能を辺野古のキャンプ・シュワブ沿岸部に移設する方針が最終決定されました。これが、現在進行している「辺野古移設計画」です。


まとめ:辺野古移設の流れ

  • 橋本政権(1996年):SACO合意で「普天間返還」と「沖縄県内移設」が決まる。辺野古は有力候補地だったが未確定。

  • 小渕・森政権(1998?2001年):辺野古沖に「海上ヘリポート」を建設する案が合意されるが、移設は進展せず。

  • 小泉政権(2001?2006年):辺野古移設を正式決定。2006年に「普天間の機能を辺野古に移す」と明文化された。

つまり、辺野古移設の原案は橋本政権が作り、正式に辺野古移設を決定したのは小泉政権だと言えます。