江戸の薩摩藩邸焼き打ち事件とは?

Q.江戸の薩摩藩邸焼き打ち事件とは?

江戸の薩摩藩邸焼き打ち事件とは、江戸薩摩藩邸の焼討ち事件とも呼ばれ、1868年(慶応4年)1月に発生した事件です。これは、江戸市中で発生した旧幕府軍と薩摩藩との武力衝突であり、戊辰戦争の発端となった出来事の一つとされています。

背景

  • **大政奉還(1867年10月)**により、江戸幕府の政権は朝廷に返上されたものの、旧幕府勢力は依然として影響力を保持していました。

  • **王政復古の大号令(1868年1月3日)**により、新政府(明治政府)が成立しましたが、徳川慶喜は納得せず、徹底抗戦の姿勢を見せました。

  • 幕府側は、薩摩藩が江戸で反幕府活動を行い、浪士組を集めて治安を乱していると考え、これに怒りを募らせました。

事件の経過

  1. 1868年1月3日〜4日

    • 旧幕府側の浪人たち(幕府の支持を受けた浪士組など)が集結し、江戸薩摩藩邸(現在の東京都千代田区)に対する攻撃を計画しました。

  2. 1月4日夜〜5日未明

    • 数千人の幕府側浪人や市民が**江戸三田の薩摩藩上屋敷(芝三田薩摩藩邸)**を襲撃しました。

    • 薩摩藩側は抵抗し、藩邸は戦場と化しました。

    • 戦闘は熾烈を極め、最終的に薩摩藩邸は炎上しました。

  3. 事件後

    • この事件を受けて、薩摩藩を中心とする新政府側は旧幕府勢力が武力行使を行ったことを問題視し、戦争もやむなしとの判断を強めました。

    • これが直接のきっかけとなり、1月27日に旧幕府軍と新政府軍の間で鳥羽・伏見の戦いが勃発しました。

    • これにより戊辰戦争が本格的に始動しました。

影響

  • 幕府と薩摩藩の関係が決裂し、戊辰戦争の開始を決定づける要因となりました。

  • 江戸市中は混乱し、幕府の権威がさらに低下しました。

  • 事件を通じて、新政府軍は旧幕府勢力と対決する姿勢を鮮明にしました。

この事件は、単なる武力衝突ではなく、明治維新の進展に大きな影響を与えた重要な出来事の一つといえます。



Q.首謀者は?

江戸薩摩藩邸焼き討ち事件の首謀者については、明確な個人名が確定しているわけではありませんが、事件を主導したのは 旧幕府側の勢力 であり、特に以下の人物や組織が関与したとされています。

主な首謀者・関与者

  1. 旧幕府側の浪人・幕臣

    • 幕府崩壊後に職を失った浪人たちが、薩摩藩を敵視し、襲撃の主力となりました。

    • 薩摩藩が江戸で反幕的な活動を行い、浪士を集めて旧幕府勢力を挑発していると考えたため、焼き討ちに至ったとされます。

  2. 庄内藩(酒井忠篤)

    • 幕府寄りの立場だった庄内藩(出羽国)の藩士が浪人たちを支援したとされます。

    • 当時、庄内藩は江戸の警備を担当しており、薩摩藩との対立が深まっていました。

  3. 幕府陸軍

    • 幕府の歩兵隊・騎兵隊が浪人たちを支援した可能性があります。

    • 襲撃には数千人規模の人々が関与しており、幕府の軍事組織が関与していなければ成立しにくいと考えられています。

幕府首脳の関与

徳川慶喜自身が直接指示した証拠はないものの、幕府首脳部(若年寄や老中など)が黙認または扇動していた可能性があります。
特に、陸軍総裁の勝海舟はこの衝突を望んでいなかったとされていますが、幕府内の強硬派が影響を与えたと考えられます。

まとめ

首謀者として具体的な個人名は残っていませんが、旧幕府勢力の浪士や幕臣たちが主導し、庄内藩などの支援を受けた可能性が高いです。この事件が結果的に旧幕府勢力の弱体化を早め、戊辰戦争へとつながっていきました。