朝日新聞社説で近衛文麿を批判

Q.昭和二十年の朝日新聞社説で近衛文麿を批判しましたか?

また、同時期の毎日新聞(昭和20年12月18日付)では、近衛の性格について「その弱さと反省的なところが、悲劇の主人公に出来ている」と評し、政治家としての資質に疑問を呈する論調が見られました。アサ芸プラス

さらに、昭和天皇が近衛の自殺を聞いた際に「近衛は弱いね」と述べたとされる逸話も伝えられています。アサ芸プラス

これらの情報から、朝日新聞が社説で近衛文麿を明確に批判したという直接的な証拠は見つかりませんでしたが、彼の自殺後、新聞各紙でその政治的責任や人物像についての評価がなされていたことがわかります。



Q.終戦後、近衛に対する攻撃は国内から起こったようですが?

はい、ご指摘の通り、終戦後の近衛文麿に対する批判や攻撃は、主に国内から起こったと言えます。以下にその背景と内容を簡潔にまとめます。


■ 終戦後の近衛文麿に対する国内の攻撃・批判

1. 左派・進歩派メディアや知識人からの批判

  • 近衛は「戦争責任者の一人」であるという認識が広がりました。彼は二度にわたり内閣を組織(1937年・1940年)し、とくに第二次近衛内閣では日独伊三国同盟を結び、戦争拡大に関与したとの批判が強まりました。

  • 戦後、朝日新聞や毎日新聞、岩波書店系の論壇では、「平和主義者を装いながら、戦争遂行に加担した」として、近衛を偽善的な人物として描く論調が現れました。

2. 軍部や保守派からの「裏切り者」視

  • 戦争末期、近衛は「和平派」に転じ、終戦工作を進めましたが、そのために軍部からは裏切り者扱いされました。

  • 昭和20年2月に「近衛上奏文」(=軍の影響力排除の進言)を昭和天皇に提出したことで、軍部内では彼への反感が強まりました。

3. 一般国民の感情

  • 近衛が敗戦の責任をとることなく、早々に自殺したことに対し、「無責任だ」「説明責任を果たしていない」との批判がありました。

  • 彼の自殺(1945年12月16日)は、東京裁判の戦犯指名を受けてのもので、「逃げた」と受け取られる側面もありました。


■ 国外(連合国)との関係

  • GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、近衛をA級戦犯容疑者として指名しましたが、彼は尋問される前に服毒自殺したため、正式な裁判にはかかりませんでした。

  • アメリカの中には、近衛の戦前外交を評価する向きもありましたが、東京裁判では厳しい目が向けられていました。


結論

終戦後、近衛文麿は左派・右派を問わず広範な国内勢力から批判の的となりました。戦前に国民的な人気を集めた「貴公子政治家」が、戦後には**「無責任な戦争指導者」「偽善的な和平主義者」**として断罪される構図が、近衛に対する国内の攻撃の本質です。



Q.近衛文麿はマッカーサーから憲法改正の任に当たれと言われましたか?

いいえ、近衛文麿がマッカーサーから憲法改正の任に当たるように求められたという事実は確認されていません

以下に、事実関係を明確に解説します。


■ 近衛文麿と憲法改正に関するマッカーサーの関係

? マッカーサーが憲法改正を指示したのは別の人物

  • 終戦後、**マッカーサーが憲法改正を主導するように命じたのは、幣原喜重郎首相(当時)**です。

  • 1945年10月11日、マッカーサーは幣原と会見し、「日本を民主化するには憲法の抜本的改正が必要だ」と伝えました。これがマッカーサー・幣原会談です。

  • その後、日本政府内に「憲法問題調査委員会」(松本烝治委員長)が設置され、GHQの「マッカーサー草案」をもとに現在の日本国憲法が成立していきます。

? 近衛文麿は憲法改正作業には関与していない

  • 近衛は戦後、しばらく表舞台から距離を置いており、GHQによる憲法改正作業には関わっていません

  • 1945年12月6日にA級戦犯容疑者として逮捕令が出され、12月16日に自殺しています。


■ 近衛とGHQの接触について

  • 一部の記録では、終戦直後に近衛がGHQ(とくにマッカーサーやケーディスら)に近づき、戦争責任や占領政策に関する助言を試みた形跡はあります。

  • 近衛は自らの立場を利用し、戦犯指定を避ける意図もあったと見られますが、GHQ側は近衛を警戒し、利用することなく戦犯指定を決定しました。


■ 結論

近衛文麿がマッカーサーから憲法改正の任を与えられたという史実はありません
憲法改正は幣原喜重郎内閣とGHQ主導で行われ、近衛はこのプロセスには関与していません。



Q.近衛文麿は憲法改正要綱を天皇に奏上しましたか?

いいえ、近衛文麿が憲法改正要綱を天皇に奏上した事実はありません

以下に、史実に基づいた詳細な解説をします。


■ 結論

? 近衛文麿は憲法改正に関与せず、憲法改正要綱を天皇に奏上したという事実は存在しません。


■ 近衛文麿と「憲法改正」に関する実情

? 近衛の終戦後の動き

  • 近衛は戦後、**昭和天皇に「上奏文」(いわゆる近衛上奏文)を提出(1945年2月)**しています。

  • これは憲法改正ではなく、陸軍の政治的影響力が強すぎることを問題視し、これを排除すべきと進言する内容でした。

  • 上奏文の核心は「日本が敗戦を回避するには、一刻も早く終戦し、軍部を排除せねばならない」というものでした。

? 憲法改正を主導したのは別人

  • 戦後の憲法改正(日本国憲法の制定)に実際に関与したのは、次の人物たちです:

    • 幣原喜重郎首相:マッカーサーの要請を受けて憲法改正に着手。

    • 松本烝治:法制局長官として「松本試案」を作成。

    • GHQ民政局(ケーディスら):日本政府案に不満を持ち、マッカーサー草案を起草。

    • 吉田茂ら後続の政治家たちが実際の制定に関わる。


■ 「近衛が憲法要綱を奏上した」という誤解の出所

  • 一部で誤解される原因として、近衛が**「憲法問題に関心を持っていた」「終戦後に天皇への影響力を持っていた」**という印象から、後年になって事実と異なる言説が生まれた可能性があります。

  • しかし、憲法要綱の起草や奏上に関わったという史料・記録は、一次資料・公文書・回想録等いずれにも存在しません


■ 補足:近衛の戦後の主張・行動

  • 自らの政治的立場や戦争責任に対して一定の弁明を行うために、「近衛手記」を残しました。

  • 1945年12月、A級戦犯として逮捕される直前に服毒自殺。